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野毛の街の歴史について教えて!【前編】

ココがキニナル!

戦後まもない野毛周辺の街並みが気になる。今もあるお店の中で一番古いのは!?(とっくんさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

江戸時代漁村だった野毛は、開港後に人でにぎわい、震災を乗り越え、戦後、焼け野原の野毛に開かれたマーケットをきっかけに、一大繁華街となった

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ライター:永田 ミナミ

野毛という街



野毛ほど人に愛されている街はそう多くはない、と言うと「いやいやうちの街のほうが」「いやいやうちのほうが」「どうぞどうぞどうぞ」という言葉が聞こえてくるくらい、横浜には愛されている街がいくつもあるが、ともかく「野毛」が多くの人に深く愛される街であることに異論はないだろう。
 


「街が呼んでいる」というのはこういう街を言うのだろう
 

また、野毛という街が「戦後」が大きな渦を巻いた場所でもあることも忘れてはならない。終戦からまもなく70年が過ぎようとしているが、その渦が集めた時間とつないだ人たちは、いくつもの困難を乗り越えて「野毛」をつくってきた。歴史の深さがそのまま愛情の深さとなっている味わい深い街である。

今回、野毛飲食業協同組合会長である、とんかつ「パリ一(ぱりいち)」の田井(たい)さんのご協力で、いろいろなお店を紹介していただいたことで、街の味わい深さを物語る取材となった。なかでも苅部(かるべ)書店の苅部正さんが貸してくださったいくつかの貴重な資料は、街に染み込んだドラマを知るうえで大変参考になった。

というわけで今回は、戦後まもない野毛周辺の街並みに焦点を当て、歴史を探った前編と、最古の店を探して実際に街を歩いた後編の2本立てでどうぞ。
 



野毛のはじまり



江戸時代、野毛は「武蔵国久良岐群戸部村字野毛浦(むさしのくにくらきぐんとべむらあざのげうら)」と呼ばれていた。現在の野毛町、花咲町から宮川町にかけて、一部は切り立つ崖でその下に白波が寄せる浜辺であり、家屋数100戸ほどの小さな漁村だった。
 


開港直前の1858(安政5)年ごろの海岸線はこんな感じだった
 

冨士三十六景「武蔵野毛横はま」(初代広重 1858)に描かれた象ヶ鼻
(横浜市中央図書館所蔵提供)
 

桜木町駅がある場所も海だった。周囲約36メートル、高さ9メートルほど、以前はまれぽでも調査した「姥島」と呼ばれる岩礁があったことを知る人も多いだろう。
 


諸国名所百景「武州横浜野毛」(2代広重 1859)に描かれた姥島
(横浜市中央図書館所蔵提供)
  

野毛にぐっと寄ってみるとこんな感じで
  

現在の野毛町はこんな感じ。都橋は野毛浦に出る河口になる
 

その後、開港とともに洲干島(しゅうかんじま)周辺と湿地帯だった太田屋新田は埋め立てられ、外国人居留地、太田町などがつくられた。さらに用地の必要から1867(慶応3)年〜68(明治元)年には野毛橋周辺、1869(明治2)〜71(明治4)年には鉄道敷設用地として野毛浦が埋め立てられた。