69回目の終戦記念日、当時の悲劇を戦争の語り部「神倉稔さん」が語る!
ココがキニナル!
かつて横浜は戦場だった。横浜大空襲は多くの死者を生み、人々の運命を変えた。その記憶を後世に伝えたい。終戦記念日の本日、東小学校の惨劇を体験した神倉稔さんのお話を伺う。
ライター:松崎 辰彦
戦後生まれが人口の4分の3を占めているという現代日本。戦争とはテレビや新聞、さもなくばインターネットを通して見聞する他国の事件か、父・母あるいは祖父・祖母世代が体験したはるか昔の出来事としか捉えられない人が、多くなっている。
しかし69年前、横浜は紛れもなく戦場だった。1945(昭和20)年5月29日午前9時22分に始まった横浜大空襲は推定8000人の犠牲者を出し、生き残った多くの人々の運命を変えた。
猛火に包まれた市街(画像提供:横浜市史資料室)
目の前で父を、母を、兄弟姉妹を失った記憶は、生涯消えることはない。しかも亡くなった人々の大半は「焼死」というあまりに痛々しい死因なのである。
現在、横浜大空襲を語り継ぐ人々は、例外なく高齢者である。しかし彼らはあの日、まだ赤い頬の少年であり、お下げが可愛い少女だった。幼い心に刻み込まれた戦争の記憶をこそ、現代の私たちは受け継ぎ、次代に渡す必要があろう。
終戦記念日の本日、はまれぽはある一人の空襲体験者に注目してみたい。彼をここでとり上げるのは、彼が母と弟を失くし、自らの運命を大きく変えたのが野毛に現存する小学校という私たち横浜を愛する者にとって身近な場所の学校であるということ、そして大人になった彼に近年、空襲体験に関する多くの講演依頼の声が届き、NHKまでもが彼の証言を放送し多くの反響を得たことが、数多(あまた)の空襲体験者から彼に注視する理由である。
戦争が庶民の生活を圧迫する
大和市つきみ野。駅からしばらく歩いて行き着くのは神倉稔(かみくらみのる)さんのご自宅である。
神倉さんのご自宅
一級建築士である神倉さんは、もちろんご自身の手でわが家を設計した。長く大手デベロッパーに勤め、街の開発を手がけた神倉さんは、定年後も障がい者関係のNPOの運営に携わるなど、社会的にも意義ある活動を続けている。
神倉稔さん。ご自宅前で
そんな神倉さんだが、昨今は横浜大空襲の体験談を話してほしいという要請が相次いでいる。
「私自身が卒業し、空襲被害にあった東(あずま)小学校やキリスト教の教会、あるいは婦人団体などから『空襲の話をしてほしい』というお話が来ています」
一昨年の2012(平成24)年にはNHKのテレビ番組にも出演し、横浜大空襲を回想して、自分があの日どう行動して、幼い眼で何を見たかを証言した。
テレビ出演時の神倉さん
子どもたちに説明するために作ったプラモデル
先日、横浜のにぎわい座で行われた「横浜大空襲祈念の集い」でも登壇し、あの日の記憶を語った。
「横浜大空襲祈念の集い」で話をする神倉さん
大きな惨劇の末に母親と弟を失い、家を失った神倉さん。戦争の実態を、さまざまな機会を通して伝えている。
「私は1932(昭和7)年4月4日、横浜市中区末吉町に生まれました。4男2女の三男です。父は洋服仕立業で、デザインもやり、紳士服の仕立では横浜の草分けといわれた人でした」
神倉さんは説明する。当時の末吉町には青果店や鮮魚店、精肉店などのほか、バナナを熟成させる工場もあった。そうしたなかでいたずら坊主だった稔少年はお小遣いをねだっては駄菓子屋へ足を運び、友達を集めてメンコやビー玉遊びに興じた。13歳、旧制中学1年だった彼は、一方で将来は陸軍幼年学校入学か予科練入隊(航空兵養成制度の一つ)を思う軍国少年でもあった。
当時の予科練生(フリー画像より)
1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争は、徐々に一般庶民の生活を圧迫するようになった。神倉さんはいう。
「まず食べ物がなくなりました。米も砂糖も配給になり、切符を持っていかなければ手に入らなくなりました。甘いものが食べられないんです。ただ私の家は父が仕事の関係で顔が広く、方々に融通をしてもらいました」
砂糖も配給になった(フリー画像より)
まだ何も損傷のない建物を壊す「間引き疎開」も行われるようになった。空襲に備えて、燃えやすい家を撤去するのである。
「壊れていない家の柱をノコギリで切り、ロープをかけて皆で引っ張るんです。壊した後で、隣組で防空壕を作りました。でも、一つの防空壕には 2〜3家族しか入れませんでした」
このような毎日の中、とうとう「あの日」がやってきたのだった。