福富町に韓国系のお店が多いのはなぜ?
ココがキニナル!
中区福富町には韓国系のお店が多くありますが、なぜでしょうか? (浅田真央子さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
高齢化が進んだ経営者たちが知人に店を貸し始める。その中に韓国の人々が含まれ輪が広がり、仲間意識の強い韓国系の人々が次々と福富町へ流れこんだ
ライター:クドー・シュンサク
「平らで交通の便が良いので、さらに街として発展しやすい」
「元々アッチ系の街だから何かが円満になったりするのは難しいといえば難しい」
「1988(昭和63)年ごろから一気に韓国人の店が増えました」
「最終的には、中華街のように福富町の韓国街を広く成立させるつもり」
以上は、今回の取材で聞いた話の一部。
福富町の謎。「反社会的勢力」も多く存在するという福富町。
韓国系のお店がなぜ多いのか。
福富町を取り仕切る町内会の会長に話を聞くところから開始。
1988年ごろから韓国系店舗の加勢が
在日本神奈川県韓国人連合会が発行する地域マップには表紙にしっかりと「横浜福富町コリアタウン」と記されてある。
福富町はいつから、なぜコリアタウンになったのか
まずはこちらで
イセザキ・モール内にある平山観光株式会社にて、福富町町内会の平山正晴会長と専務取締役の平山晴彦さんに福富町コリアタウンの経緯などについて伺う。
では
おじゃまします
平山会長いわく、福富町は1960(昭和35)年ごろから飲食店街、繁華街として繁栄を誇っていたという。
繁華街となったのは終戦後、米軍に接収後1952(昭和27)年に返還された関内地区にあった「トルコ風呂」が1966(昭和41)年に「営業禁止除外区域」に指定されたため、福富町に流れ込んだという背景がある。
当時の雑誌記事(週刊サンケイ1974年3月15日号)
だが、店の経営者の高齢化が進み、後継者の不在で時を経て引退。そして自身の店舗を人に貸すことが一時主流となった。
その際、とある経営者が近隣のお店の人たちに「知り合いの韓国人たちがお店をやる場所を探しているから協力してほしい」と持ちかけられたところからが始まりだったはずでしょう、とのこと。
そこから韓国人のお店が増え始めたという
時期的には1988(昭和63)年、ソウルオリンピックの年あたりから。かつて歓楽街としてにぎわった街のイメージを気にしないからか、日本人よりも、韓国人の出店希望者が多かったという。
福富町で店を始めた韓国人の方々は約半数以上の方が商売を繁盛させ、街界わいに店舗の空きがでると知人を紹介し出店させる、またその人が知人を紹介し・・・の繰り返しが、コリアタウンと呼ばれるまでの街の形成と言えるのではないだろうかと、平山会長は続けた。
現在、福富町に出店している韓国の方々は会費も納めマナーの良い人ばかりだとも続けた
西通、仲通、東通の3つの通りとメインとなる韓国通りと4つの通りで形成される福富町。韓国系のお店が増え、コリアタウンと呼ばれるようになってから、何かトラブルの増減や、問題になっていることはあるのか尋ねてみた。
まだ静かな夕方前の福富町・韓国通り
何が起きているのか
「1960年ごろ、街が栄え始めたころから元々は『アッチ系』の街だったから、問題は多かったり、今でも表に出ていなくても問題は山積でしょう。日本と韓国とそのほかのアジア、それと『アッチ系』の人たちのバランスはとれているのか安心なのかもわかりにくい状態です。何かが、すべてが円満になったりするのは難しいといえば難しいですね」と話してくれたのは専務取締役の晴彦さん。
街のイメージはイメージとしてそのまま、懐の部分で変えていけるところから変えていきたいと話してくれた。
平山会長とともに福富町西集会所へ
取材日は福富町内会の定例役員会議が行われるとのこと。現在の街の問題点をいくつか、どう補っていくか。そういった内容が話されるというのでお伺いさせていただくことに。
「私は福富町のコリアタウンを中華街のようにしたいんですよ」
平山会長から驚きの発言。広く知られる観光地として、韓国文化と日本文化の良き交差点として、福富町を成長させて街づくりを行いたいと話し、定例役員会へと向かった。
大きな目標のようです
どういったところからコリアタウンを、福富町を成長させるのかお聞かせ願います。