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江戸時代から鶴見川に架かる「鶴見川橋」は歌川広重の浮世絵のモデルになったって本当?

ココがキニナル!

「鶴見川橋」の歴史は古く、江戸時代には「鶴見橋」と呼ばれ、安藤広重の浮世絵にも描かれているとか。現在の鶴見川橋がアーチ形なのは、当時の橋の形を意識したものなの?(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「鶴見川橋」は江戸時代の「初代鶴見川橋」を意識したものではなく、川の中に柱を立てずに強度を保つためのデザイン。大正時代に鶴見橋から改名した

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ライター:橘 アリー

徳川家康によって架けられた橋!?

鶴見川に架かっている「鶴見川橋」の歴史と、そのデザインの理由についての調査。
 


現在の「鶴見川橋」は、アーチを描く、とても美しい橋である


「鶴見川橋」は、旧東海道上にある橋。キニナル投稿にあるように、江戸時代には「鶴見橋」と呼ばれ、日本橋から東海道を旅する人々が、最初に渡った橋である。
 


旧東海道上から見た現在の「鶴見川橋」の様子
 

「鶴見川橋」(東京方面側)の入り口横にある市場下町公園には
 

初代・歌川広重の浮世絵が印刷された、鶴見橋の説明が立てられている
 

初代・広重の浮世絵「五十三次名所絵図 川崎 生麦の里」(橋の説明の看板より)
 

こちらが現在の「鶴見川橋」


見比べるとアーチの形状は違うが、現在の橋には、どことなく浮世絵の橋の雰囲気が伺えなくもない。

まず、浮世絵に描かれている「鶴見橋」はいつごろ架けられた橋なのか?

 


横浜市道路局橋梁課が発行している資料『鶴見川橋』によると


「鶴見橋」は、徳川家康が東海道を整備した慶長年間(1596年~1615年)に架けられたそうである。

補足すると、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、全国の街道の整備を始め、1601(慶長6)年に伝馬(てんま)制度をしいて東海道の整備を行った。
ちなみに、伝馬制度とは、公用の書状や荷物を運ぶための馬を宿場ごとに配置する制度のこと。

なお、鶴見川橋はこれまで大きく2回のモデルチェンジが行われている。つまり、今の「鶴見橋」は三代目となる。橋梁課の資料によると、江戸時代の橋は「鶴見橋」という名前であったが、分かりやすくするために「初代鶴見川橋」、1953(昭和28)年に行われた1度目のモデルチェンジを経た「鶴見川橋」は「先代鶴見川橋」と記されている。

この後、記事中では分かり易いように「先代鶴見川橋」を「二代目」と表記していく。
 


「鶴見川橋」の資料


「初代鶴見川橋」は、長さ25間(45.5メートル)、幅は3間(5.5メートル)。現在の「三代目鶴見川橋」は長さ119.6メートルなので、半分以下の長さであった。

「鶴見橋」から「鶴見川橋」という名前に変わったのは、大正末期に架けられた国道15号線の大きな橋の方を「鶴見橋」としたため、それと区別するためであるようだ。
 


国道に架かっている「鶴見橋」


そして、資料には「二代目鶴見川橋」になるまで、何度か改修や架け替えが行われたとあるが、橋梁課でこの橋を管理するようになったのは「二代目鶴見川橋」からであるとのことなので、現在の「鶴見川橋」のデザインについてお話を伺う前に、1601(慶長6)年から1953(昭和28)年までの間の経緯を資料で辿っていくことに。



何度も、改修が繰り返された!?
 


『鶴見川災害予防組合史』によると


鶴見川は、川の勾配が緩いために水の流れが遅く、川幅が狭い。そして、流路が大きく湾曲しているなど、大雨が降ると洪水になりやすい特徴があるため、“暴れ川”とも呼ばれ、何度も氾濫を繰り返してきたそうだ。
 


広重の浮世絵の鶴見川も大きく湾曲している
 


江戸時代の「東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず)」でも川は大きく湾曲している(提供:鶴見神社)


そしてそのため、現在のように川幅を広くして堤防をしっかりと整備するまで、台風や大雨が降ると鶴見川は氾濫、それによって橋も被害を被り、そのたび、架け替えや補修が繰り返されてきたようだ。
 


現在の「鶴見川橋」近くの堤防に、水害に遭われた方々の慰霊碑が立てられている


「初代鶴見川橋」の架け替えと補修の経緯については、『鶴見川災害予防組合史』の治水年表で確認することができる。

年表から、架け替えと補修を抜粋すると下記のようになる。
 


1601(慶長5)年から1696(元禄9)年の間は不明だが、「初代鶴見川橋」が「二代目鶴見川橋」にモデルチェンジされるまでの間には、少なくとも6回架け替えが行われ、補修は9回行われてきたようである。

 

年代は不明だが明治時代の「鶴見橋(初代鶴見川橋)」(『鶴見川災害予防組合史』より)
 

1921(大正10)年の「鶴見橋」(提供:鶴見神社)


また、横浜開港後は外国人に危害を加える人が多かったそうで、彼らを保護する目的で東海道沿いの要所には、神奈川奉行によって関門や番所が設けられたそうだ。

記念碑の案内板によると、鶴見川の近くにある鶴見橋関門は、1860(万延元)年4月に設けられた。
 


現在、旧東海道沿いに、「鶴見橋関門跡」の碑が立てられている


次第に世情が安定していき、この関門は1871(明治4)年11月に廃止されたそうである。

「二代目鶴見川橋」までの歴史が分かったところで、次は「二代目鶴見川橋」と現在の「鶴見川橋」について。
 
 
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