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横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

80年以上の歴史がある「横浜三塔」のひとつ、「横浜税関」の看板に誤字があるって本当?

ココがキニナル!

横浜の旧漢字「横濱」はよく見かけますが、横浜税関正面にある看板には、「横濵」となっており、浜の旧漢字が「ウ冠の下が眉」。どちらが正しい地名?(Bayside Breezeさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「横濱」も「横濵」も正しい表記である。時代をはじめ、毛筆か活版かによって漢字表記や字体が違うために差が生まれた。

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ライター:三輪 大輔

何をする! 何をするのだ!――
1936(昭和11)年2月26日早朝。 二人の青年将校が青山の邸宅に押し入った。「国賊」、「天誅」。そう叫びながら一人の将校は81歳の老体に銃弾を撃ち込み、もう一人が刀で斬りかかる。凶行は執拗で、残忍さを極めた。布団は赤く染まり、畳は泥にまみれ、やがて老人は絶命する。
 


政府要人が襲撃された二・二六事件で日本は転換期を迎える


その人こそ、首相経験者であり当時7度目の大蔵大臣に就任していた高橋是清(たかはし・これきよ)である。1936年の予算編成会議では、軍事費を巡って、 軍部と激しい衝突をしていた。しかし未明に勃発した二・二六事件の標的にされ、道半ばに倒れる。そして軍部の力が増した日本は、急転直下の勢いで戦争へ突き進んでいく。
 


昭和前期を代表する政治家である高橋是清(『近代日本人の肖像』より)


キニナル投稿にあった「横浜税関」の看板の文字。それをさかのぼっていくと高橋是清に突き当たり、そして戦後日本の国語教育へたどりつく。「濵」の字を中心にして、それらの歴史を振り返っていきたい。
 


「横濵税関」と記された横浜税関の看板




日本のケインズ、高橋是清の誕生



「横濵税関」と記された横浜税関の看板。それを書いたのは高橋是清ではないかという情報は、横浜税関で教えていただいた。
 


以前CIQプラザの取材でもご協力いただいた美濃輪さん


横浜税関の歴史をまとめた『横浜税関百二十年史』の中に「口伝によると、この字を書いた人は、省庁新築当時の高橋是清大蔵大臣である」との記述があるとい う。これが横浜税関と高橋是清を結びつける唯一の手掛かりとなる。実は『横浜税関百二十年史』にも「税関に保管されていた古い資料は20年に(筆者 注:1945年)米軍に接収され、その大部分が紛失してしまい」とあるように、税関内に十分な資料が残されていないのだ。
 


「横浜税関百二十年」をめくって説明をしてくれる


それでは高橋是清とは、一体どのような人物であったのだろうか。横浜との関連を中心に簡単に説明をしておく。

高橋是清は1854(嘉永7)年7月27日、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)で生まれる。しかし非嫡出子(ひちゃくしゅつし)であった是清は、 生後間もなく仙台伊達藩の足軽・高橋是忠(たかはし・これただ)の元に養子に出された。この足軽と仙台藩という2つの要素が、やがて是清と横浜を結びつけ ることになる。
 


渡米時代の高橋是清『東京開成中学校校史資料』


近代化へ向けて走り出した明治初期、仙台藩は英語とフランス語を勉強する必要性に迫られ、足軽階級からでも能力のある人材を登用する必要があった。そこで江 戸の仙台藩邸にいた是清に白羽の矢が立ち、1864(元治元)年、横浜のヘボン塾に通うことになる。是清の生涯を語る上で欠かすことができない語学力。その礎は横浜で築かれていた。
 


明治維新後の開港時の横浜


その後、再び是清と横浜が結びつくのは、1895(明治28)年である。
この間の約30年、是清は1867(慶応3)年に13歳でアメリカのサンフランシスコへ留学し、一時奴隷になる経験などをして1868(明治元)年に帰国。 その後「大酒飲みで女好きの相場師」とレッテルを貼られるほど波乱万丈の時期を過ごすが、1881(明治14)年に文部省に入省すると1887(明治 20)年には特許局長に就任した。

そしてペルーでの銀山経営失敗を経て、1892(明治25)年に日本銀行に入行する。幼少期の横浜での 経験が、彼の人生に転機をもたらす場面もあった。例えばサンフランシスコからの帰国後、教職へのきっかけを与えたのは横浜時代の友人であったし、日本初の 「商標と特許に関する法案」起草に携わるきっかけも横浜で外国語を教えてもらったヘボンであったりする。
 


横浜正金銀行だった神奈川県立歴史博物館


そして1895(明治28)年に横浜正金銀行の横浜本店支配人に就任することで、再び是清と横浜が結びつく。横浜正金銀行時代で重要になるのが、イギリスと アメリカへの視察である。この経験が日露戦争の際、海外からの戦費調達に生かされて、日本の勝利をもたらす要因となった。その後、日本銀行副総裁を経て活躍の場は政界へ移り、7度の大蔵大臣に就任し、内閣総理大臣も経験するなど、彼のキャリアの頂点を迎えることになる。

高橋是清のキャリアを振り返ってみると、横浜は重要な地であったといえるかもしれない。それでは横浜税関の看板が書かれた時期はどうだったのだろうか。1930年代を中心に、当時の歴史を振り返ってみたい。