片倉町から鴨居駅まで、市バス36系統が通る菅田道路に多くある神社やお寺、道祖神を徹底調査!
ココがキニナル!
片倉町駅から鴨居駅まで市バス36系統が歴史を感じる道だった。この道がどういう道だったか、道路沿いの神社はどういところか、付近の道路建設の歴史な観点も交え調査を!(茱萸澤村民さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
片倉町から鴨居駅までのこの道路は「菅田道路」。付近には最勝寺や神明社などのお寺や神社があり、道路沿いには双体道祖神・庚申塔などがあった。
ライター:橘 アリー
閑静な地域を通る道路
キニナル投稿の、横浜市営バス36系統が走る“うねりながら続いている鴨居駅までの道路”の位置を地図で確認すると・・・
ほぼ中央を通るオレンジの線がそのバス通り
この区間の中から、神社やお寺の名前、また、歴史を感じさせるような名前のバス停を挙げると「熊の堂」「神明社入口」「猿渡」「長導寺」「道路碑前」あたりであろうか。
これらのバス停があるのは、地図中の青で囲まれた区間。
神奈川区菅田町を通る菅田道路である
この道路は、キニナル投稿に「微妙にうねりながらつづいていく」とあるように・・・
いくつものゆるやかなカーブを描きながら、閑静な地域を通っている
道路建設と、上記バス停名の「道路碑」については、以前にはまれぽの記事になっている。
そこから抜粋すると「菅田道路は、農協選出の市議であった鈴木氏の働きかけにより、1948(昭和23)年に開通した道路」で、この道路が整備されたことにより、交通の便が良くなり街が発展していったそうである。
「道路碑」は・・・
菅田道路の開通を記念して1950(昭和25)年に近隣の住民から寄付を募って建てられたそうである。
なお「道路碑」の交差点で2つの道路が交差していて
写真中央のバス停の所に「道路碑」があり、青い矢印が菅田道路で、赤い矢印が、三沢小机線。三沢小机線は1931(昭和6)年に横浜市が失業対策として行った公共事業で作られたそうである。
ここで、最初の地図に戻って「道路碑」の位置を確認すると・・・
赤丸のところが「道路碑」の場所
そして、前に書いた、神社やお寺の名前、また、歴史を感じさせるような名前のバス停の「熊の堂」「神明社入口」「猿渡」「長導寺」があるのは、地図中のオレンジの矢印の区間である。
そこで今回は、地図中のオレンジ区間を中心に神奈川区の菅田道路沿いについて調べていくことに。
道路沿いには多くの石碑が!
最初に、道路の名前にもなっている菅田町の名前の由来について触れておく。
菅田町は、もとは小机村の一部で、小机城が落城した後は荒れ果てた原野となっていたそうだ。そこを隣にあった菅田村(保土ケ谷区)の村民が開拓した。村民は前から住んでいた菅田村を上菅田村と呼び、開拓したところを下菅田村と呼ぶようになった。そうして橘樹郡下菅田村となったそうである。
その後、1889(明治22)年に市町村制がしかれた時には城郷村(しろさとむら)となり、1927(昭和2)年に横浜市に編入されて菅田町となった。
では、片倉町駅方面から様子を確認していくと・・・
東海道新幹線の高架下を通り
「菅田入口」の信号を直進すると
菅田町入口のバス停があり、その近くに
道祖神が祀られている(片倉町方面を背にして道路の左側)
この道祖神は、双体道祖神(そうたいどうそじん)と呼ばれるもの。
神像(右)と女神が寄り添うように立っている
この双体道祖神は『神奈川の道祖神』『道祖の神々』などの資料によると「像の頭上が広くとられ、また、女神が袂を軽く口に当てている姿などが珍しくよく出来た双体道祖神」であるそうだ。
作られたのは1779(安永8)年で「大願成就」と刻まれている。この双体道祖神は下菅田村の「金子おふじ」という女性が「大願を成就したことにより寄進した」ここにようである。
続いて「熊の堂」のバス停へ行く途中に「最勝寺(さいしょうじ)」というお寺の看板があった。
その横に石碑がある(左が日本回国供養塔で、右が庚申地蔵碑)
日本回国供養塔は1775(安永4)年に立てられたもの
塔の上部に地蔵座像(座ったお地蔵さま)が刻まれている。
庚申地蔵碑は1699(元禄12)年に立てられたもので、地蔵菩薩像が刻まれている
最勝寺に、これらの石碑について聞いてみたが、とても古いものなので残念ながらお寺には石碑に関する資料は残っていないとのこと。
なお、資料『六人衆の道案内その9』によると、地蔵信仰はインドで発祥し日本へは奈良時代に伝わったと言われている。地蔵菩薩は、釈迦如来が亡くなった後、弥勒菩薩が如来となって現れるまでの無仏の時代の民衆を救済する役割を持っていたと言われているようだ。
最勝寺は、菅田道路から、石碑の前の路地を進んで行ったところにある。
最勝寺の本堂
写真の門に「最勝寺」と「熊野山」とあるが「最勝寺」の正式名称は「熊野山最勝寺」(くまのやまさいしょうじ)と言うようである。
そしてその横には「熊野神社」があった。
「最勝寺」の門の横を通って行くと鳥居があり
階段を上っていくと熊野神社のお堂がある
最勝寺のご住職によると、バス停の名前になっている「熊の堂」は、この熊野神社のお堂があったことによりついた・・・
この地域の昔の字名であったそうだ
そして、この熊の堂の近辺の地域では、戦国時代から江戸時代まで富士山を信仰する「富士講」という民間信仰が盛んに行われており、最勝寺の西側の丘陵に富士山を模して「富士塚」が作られたようである。
現在も最勝寺の西側は、緑の生い茂る小高い丘となっており
登っていくと、そこが富士塚である。史跡碑には「富士浅間」と刻まれている
富士塚は小さな山だが、勾配がキツイので、登る時はお気を付けて!
なお、この場所には「富士浅間」の史跡碑も含めて
不動明王像や石碑など、21基がある