鎌倉の歴史ある西洋建築「旧華頂宮邸」とは?
ココがキニナル!
鎌倉市が所有する旧華頂宮邸、どんな建築なのか?取得の経緯、今後の活用予定などを取材してください。キニナル。(にゃんさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
1929年に華頂博信(かちょう・ひろのぶ)侯爵邸として建設。1996年に鎌倉市は建物を譲り受け、土地を取得した。一般公開以外の活用方法は検討中。
ライター:橘 アリー
和の空間にしっくりと馴染む西洋建築!
鎌倉の豊かな自然が残る宅間ヶ谷(たくまがやつ)。
宅間ヶ谷の名は、鎌倉幕府と深いつながりがあった鎌倉宅間派の絵師がこの地に定住していたことに由来しているそうだ。
宅間ヶ谷の風景。山に囲まれる中、道路沿いに小川が流れている
そんな和の景観に、しっくりと馴染んでいる西洋建築物がある。それは旧華頂宮邸(きゅうかちょうのみやてい)である。
旧華頂宮邸入口
場所を地図で確認すると。
JR鎌倉駅東口から、京急バス5番乗り場で「金沢八景行き」「鎌倉霊園正門前刀洗行き」「ハイランド循環」などのバスに乗り浄明寺バス停で下車。そこから徒歩4分ほどの場所。
旧華頂宮邸は、1929(昭和4)年に元・皇族の華頂博信(かちょう・ひろのぶ)侯爵邸として建てられたもので、1996(平成8)年5月に鎌倉市が建物を譲り受け、土地の借地権を取得した。
2006(平成18)年4月には市の景観重要建築物、同年10月には国の登録有形文化財(建造物)に指定され、「日本の歴史公園100選」にも選ばれている歴史的価値のある建築物である。
華頂博信侯爵と夫人の写真と家系図
華頂宮家は、皇族である伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)第12王子博經(ひろつね)親王によって創設された。その伏見宮家の分家にあたる博經親王は、1868(明治元)年に勅命(ちょくめい・天皇の命令のこと)により俗世間(一般の生活)に戻って一家を創り、京都の知恩院(ちおんいん)の山号「華頂宮」にちなんで華頂宮の称を賜った。
博信侯爵は、1926(大正15)年に、明治憲法下で皇族以外の臣籍(しんせき:皇族でなくなること)身分に下って華頂の姓を賜り、侯爵の位を授けられ祭祀(さいし・神や祖先をまつること)を継ぐことになったそうだ。
そんな華頂博信侯爵の住まいとして建てられた旧華頂宮邸の一般公開が、4月9日(土)と10日(日)に行われた。
初日の9日
普段は谷戸の中でひっそりとしている旧華頂宮邸も、この日は多くの人が訪れにぎわっていた。
旧華頂宮邸は、敷地面積は約4500平方メートル、建物述べ床面積は577.79平方メートルの木造3階建て。建物の特徴は、「ハーフティンバー」という建築様式にある。
ハーフティンバー様式とは、15世紀から17世紀のヨーロッパの民家に多く用いられたもので、柱・梁・筋違などの骨組みを外にむき出しにして、その間に煉瓦(れんが)・土・石を充填して壁とする西洋の木造建築のこと。
ハーフティンバー様式の様子
上部写真の赤丸のところが分かりやすい。茶色の縦方向の木が柱で、横方向の木が梁(はり)になる。ちなみに、屋根の斜めの茶色の木は、破風板(はふいた)という。
ハーフティンバー様式の建物は、端正で古典的な趣のある外観である。
では、趣のある建物の中は、どのような様子なのだろうか。
建物内の様子は?
1階から見て行くと。
こちらが1階の間取り図
エントランス横の居室(居間)
格子窓がモダンで美しい。
見学の方々は、建物の特徴などが書かれている展示パネルを熱心に見入っていた。
庭に面した居室
室内には、明るい陽射しがふんだんに差し込んでいる。
中央にあるのが大理石のマントルピース
マントルピースとは、昭和初期当時のスチーム暖房用のもので、当時の生活の様子に思いを馳せることができるもので幾つかの居室に設置されている。
建物の模型。これで見ると全体の様子が分かりやすい
サンルームもあり、見学の方々が和やかに談笑する姿も絵になる
ボランティアの方がカフェを開いていた
1階は、窓も多く明るく柔らかい陽射しがふんだんに差し込み、レトロな照明器具や絵画などが各部屋にある。上質な“おもてなし”の雰囲気であった。