軍都・横須賀で誕生した「海軍航空隊」の歴史とは?
ココがキニナル!
横須賀と言えば軍港。今の軍港もキニナリますが、戦時中の日本海軍航空廠や横須賀航空隊ができた経緯と戦後のその跡地がキニナリます(gogoganさん)
はまれぽ調査結果!
横須賀航空隊は航空機の独自開発など、航空廠はその精度向上を目的に発足。戦後は平和産業目的で民間企業に払いさげられ、日本の発展に大きく寄与
ライター:やまだ ひさえ
横須賀といえば海軍の街、というイメージが強い。
自衛隊の艦船が今も停泊する横須賀港
海と密接な関係にある横須賀だが、実は、日本海軍において最初の航空隊が組織されたのが横須賀だ。
戦争の形を大きく変えたといわれているのが航空機の登場。1903(明治36)年、ライト兄弟による世界初の有人飛行が成功したことによって、欧米では軍用機の開発が急速に進んでいった。
ライト兄弟 (フリー画像)
日本でも軍用機開発の重要性が論ぜられ、1909(明治42)年、陸海軍と文部省による航空機研究機関「臨時軍用気球研究会」が組織された。
その3年後には、海軍独自の研究機関「海軍航空技術研究委員会」が発足。これがのちに横須賀市追浜(おっぱま)に誕生した日本海軍最初の航空隊へと引き継がれていく。
航空隊の誕生から戦後までを、軍事関係の歴史に詳しい横須賀市史担当であり国学院大学兼任講師の高村聰史(たかむら・さとし)さんに伺った。
高村さん
「横須賀海軍航空隊」
通称「横空」。
日本海軍最初の航空隊である横須賀海軍航空隊が追浜に誕生したのは、1916(大正5)年4月。航空機の独自の開発と、操縦練習将校の育成を目的に設立された。
併設された追浜飛行場を含めると23万坪(約76万平方メートル、横浜スタジアム29個分)という広大な敷地を有する隊だった。
海岸に面した場所に横空はあった
日本海軍の中で、横須賀の海軍航空隊が重要な位置を占めていたことを物語っているのが、追浜駅前から海まで延びている道路だ。
1933(昭和8)年に完成、特23号と呼ばれた航空隊専用道路で、一本道で横空とつながっていた。
現在も駅から長く伸びる
軍用機の飛行技術の向上を主目的の一つとして設立された横須賀海軍航空隊だが、発足当初は、水上機に重点がおかれていた。
主流は水上機だった(『新横須賀市史 別編軍事』より)
しかし、第一次世界大戦時、陸上用飛行機の技術が急激に進歩。横須賀海軍航空隊でも、追浜飛行場の南側を埋め立て、1926(大正15)年、陸上機のための飛行場を建設した。
戦後、米軍によって撮影された追浜飛行場(同)
新たな時代へと突入した横須賀海軍航空隊では、航空術学生や練習生の教育、航空術の研究実験などが行われた。そんな中1930(昭和5)年に横空に新設されたのが「予科練習生」制度だ。
「予科練」の略称で知られるこの制度は、海軍航空隊の下士官や特務士官搭乗員を養成するためのもの。将来予想される搭乗員を育成、優秀な人材を確保することが大きな目的。
第1期生として横須賀海軍航空隊の予科練に入隊したのは、志願者580名の中から試験によって選ばれた79名。70倍以上の競争率を勝ち抜いた精鋭たちだった。
横空があった敷地内にある貝山(かいやま)緑地には、横須賀航空隊と予科練の兵舎が
緑地の前が正門だった(同)
予科練は、1937(昭和12)年には茨城・土浦航空隊に移されたが、「横空」で初期の訓練を受けた卒業生たちが大平洋戦争で中核を担ったといわれている。
兵舎のあった緑地内には、海軍航空隊と予科練の発祥の地であることを語る碑が残っている。
海軍航空隊発祥の地の碑
予科練発祥の地の碑