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見失ったトロッコ軌道跡「水道道」、野毛山まで20km踏破の旅!

ココがキニナル!

横浜水道の水道道について。野毛山から相模川まで水道敷設物資を運ぶためのトロッコ用の線路の軌道跡をどうしても筑池交差点辺りで見失います。この辺りから野毛山までの軌道跡を、調べてください(黒蕎麦さん)

はまれぽ調査結果!

水道みち「トロッコの歴史」という案内板を線でつないでいくと開通当時の軌道跡が見えてくる。工事の難所だった鶴ケ峰〜上星川間もたどることができた

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ライター:永田 ミナミ

勢いあまって南町田



開港の地となった横浜は、近代日本において「日本初」となるものが続々と作られたり行われたりした街だが、近代水道が敷設されたのも横浜が最初であった。

1883(明治16)年、神奈川県は来日した英陸軍工兵少佐のH.S.パーマー氏に水道施設に関する調査と設計を依頼した。そしてパーマー氏の報告書をもとに1885(明治18)年に着工。道志川(どうしがわ)と相模川(さがみがわ)が合流する津久井郡三井村(みいむら)に取水口を設け、2年後の1887(明治20)年9月、野毛山配水池までの約44kmの導水線路(どうすいせんろ)が開通した。
 


『横浜市水道拡張記念』より「取水所附近全景」(横浜市中央図書館所蔵)
 

「水道野毛山貯水池」(横浜市中央図書館所蔵)

 
山間を流れる相模川の上流部や川井浄水場から野毛山の区間は起伏が多く、また帷子川(かたびらがわ)が大きく蛇行しているため工事は難航した。イギリスのグラスゴーから水道管として輸入された鋳鉄管(ちゅうてつかん)は、相模川上流には船で運搬されたが、多くは水道管を埋設する道路に沿ってトロッコで運搬された。このトロッコの軌道跡が「水道道(すいどうみち)」として現在も残っているのである。
 


『横浜市水道拡張記念』より「導水線路」(横浜市中央図書館所蔵)


『横浜市水道拡張記念』より「配水管布設作業」(横浜市中央図書館所蔵)


2013(平成25)年夏に西横浜駅周辺を歩いたとき、いつかこの「水道道」を全部とはいかないまでもたっぷり歩いてみたいと思っていた。

今回は旭区の八王子街道(国道16号線)にある筑池(つくいけ)交差点から野毛までの軌道跡を、という調査依頼だが、筑池交差点はJR十日市場駅か中山駅からバスで約30分、相鉄線鶴ヶ峰駅からもバスで10分ちょっとといった感じでスタート地点としてはスタートまでが少々遠い。

そこで、勢いあまったモチベーションにまかせて7kmほど手前の田園都市線南町田駅付近から歩きはじめた。歩いてみると楽しかったので南町田〜筑池交差点も紹介したかったが、紙面に入りきらなかった。ただ、投稿では軌道跡が確認できているということなので別の機会に紹介するとして、今回は筑池交差点まで瞬間移動。



筑池交差点を出発



さて、投稿には「軌道跡をどうしても筑池交差点辺りで見失ってしまい」とある。調べてみると横浜市が作成した「導水道路『緑道プロムナード』」という資料があった。そこに取水口から野毛山に至るまでの軌道跡に設置された案内板が紹介されている。


これがその案内板。これは南町田駅近くの鶴間公園内のものである


そこでその資料と、水道管を埋設するため急角度では曲がらないという水道道の性質から、案内板の点を地図上に線でつないで軌道跡を探した。
 


そして筑池交差点から野毛山配水池までの水道道(赤点線)が判明 *クリックで拡大
(歴史的農業景観閲覧システムより)
 

というわけで筑池交差点から水道道は八王子街道から斜め右に入る
 

交差点を渡ってしばらく歩くとむこうに標識が見えてきた。あれはもしや
 

お、やはり「水道みち」の標識である

 
これまでの道程では見かけなかったこの標識。ひょっとしたら見逃していただけかもしれないが、筑池を過ぎてまもなく出逢ったこの標識がこの先も道中に立っているとすれば頼もしい限りである。地図もグーグルマップもなかった時代の旅人にとっての石造の道標はこんな感じだったのだろうか。


などと考えながら歩いていると右手にこれまでも添いつ離れつしてきた帷子川の流れ


旧型の標識は横幅が広い。味わいのある剥落を楽しむのも一興である


やがて「じゃあ、このへんで」と帷子川はまた離れていき


900メートル先で発見した「矢畑・越し巻き」という碑


碑には「北条勢が射た矢がこの辺り一面に無数に落下し、矢の畑のようになった」場所で「この辺りで畠山勢が取り囲まれたということで、越し巻きという」とある。

あの畠山重忠(はたけやま・しげただ)の乱はこのあたりが戦場だったのか、と1205(元久2)年に思いを馳せながら再び歩き出す。


すると交差点手前で右手に見えたのは「畠山重忠公終焉の地」


源頼朝に従って有力御家人となった重忠は、頼朝の没後、政権掌握に動く北条時政と対立した。そして1205年、北条義時率いる大軍を迎え撃って討ち死にした激戦の地である。


交差点を渡って歩いていくと鎧橋に到着


近くには鎧橋の説明と案内板がある


帷子川に架けられたトロッコの軌道跡が鎧橋だったと知る
 

現在は流路が変わり帷子川の流れはない。鎧橋を過ぎるとまもなく相鉄線鶴ヶ峰駅に至る

 
このまま直進すると西谷浄水場なのでまっすぐ行きたい気持ちにもなるが、西谷浄水場が完成したのは1915(大正4)年。水道道が開通した1887(明治20)年にはまだ西谷浄水場はなかった。
 


しかし西谷浄水場ができると浄水場方面へとのびる道が水道道となる *クリックで拡大
(横浜市中央図書館所蔵)

 
現在の道路台帳図でも西谷浄水場方面の道路が水道道となっているが、当初の水道道は斜め左に入る道のほうである。
 


青点線が現在の水道道、赤点線が当初の軌道跡 *クリックで拡大
(歴史的農業景観閲覧システムより)
  

斜めに入ると正面に駅が見えてくる。鶴ヶ峰駅はちょうど軌道上にある

 
駅を回りこんで歩いていくと、道を間違えたのではないかと不安がよぎるような細い路地へと変わる。住宅地への入口付近は紙面の都合で紹介できなかったが、絶えず左右に蛇行する旧道とは異なる直線的な道で、歩いてみるとやはり水道道である。