新山下運河に掛かる4本の橋、激動の歴史とは?
ココがキニナル!
2013年に霞橋が架け替えになったと思いますが、新山下運河にはたくさん歴史ある橋がかかっています。あのエリアの橋の歴史を霞橋も含め一気に教えてください(tmngマンさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
「新山下運河」に架かる4本の橋。架け替えに引っ越しなど、それぞれに物語を持つ個性的な橋たちだった!
ライター:岡田 幸子
「横浜といえば海の街」、これに異を唱える人はいないだろう。しかし、同時に「運河の街」でもあったという事実は、今となっては忘れられつつあるようだ。
かつて横浜に多く存在した運河のうちのひとつが、横浜市中区の新山下運河。ここには4本の橋が掛けられている。
それぞれの橋が持つ、4つの物語を追うため、まずは運河を訪れた。
新山下運河と4本の橋、現在の物語
やわらかな朝の日差しを受けながら、新山下運河沿いにある遊歩道を歩いてみた。ベンチで思索にふける人あり、犬を散歩させる人あり、思い思いの時間を過ごしている。
整備された遊歩道には季節の花も植えられている
平日朝の新山下運河、お散歩中と思われる父子に声をかけてみた。
「きょうは パパが おやすみだから、ほいくえん おやすみなの!」
3歳のみなとくん、今日は出勤のママを見送ったあと、大好きなパパとふたりの休日だという。運河沿いの大規模マンションに住む両親共働きのみなとくん親子は、時代的に典型ともいえそうなファミリーだ。洗濯物を洗濯機にまかせている間に、マンション下の遊歩道を朝のお散歩中とのことだった。なんて素敵なリバーサイドライフ!
パパママはともにみなとみらいにお勤めとか。職住近接ですね!
とかく、せわしないものになりがちな都会の暮らしに、ひと時のゆとりを与えているのが、新山下運河の存在。川沿いには古くからの海運会社、倉庫などに混じり、今はスタイリッシュなマンションも並ぶ。幸せに暮らす家族の物語も多く紡がれているようだ。
そんな新山下運河に架かる橋は、全部で4本。本牧側から・・・
①「鴎橋(かもめばし)」
1963(昭和38)年造の3径間単純RC床版鈑桁橋(3けいかんたんじゅんRCしょうばんばんげたきょう)の脇に、2004(平成16)年、単純鋼床版箱桁橋(たんじゅんこうしょうばんはこげたきょう)を新しく架けたもの。つまり、現在の見た目は1つの橋だが、実際には2つの橋が架かっている。31.1メートル。
②「見晴橋」
2011(平成23)年造。28.0メートル、単純鋼床版鈑桁橋(たんじゅんこうしょうばんばんげたきょう)。
③「新開橋」
2012(平成24)年造。26メートル 、単純鋼床版鈑桁橋。
④「霞橋」(※引用元記事末尾参照)
2013(平成25)年造。32.8メートル、単純プラットトラス橋。
赤白青、横浜らしくトリコロールに塗り分けられた4本の橋。時間をさかのぼり、その歴史をひも解いてみよう。
解説いただくのは横浜市道路局建設部橋梁課の守谷俊輔(もりや・しゅんすけ)係長(下写真右)と居山拓矢(いやま・たくや)さん。
お願いします!
「鴎橋」震災復興お引っ越し物語
実はお引越しをしているという「鴎橋」。その物語を読み解くために、まずは運河の歴史からご説明いただく。
守谷係長によると「新山下運河は1923(大正12)年1月の山手町地先埋立竣工とともに誕生しました。当時の物流には水上交通が大きな役割を果たしていて、横浜にも多数の運河があったのです。運河沿いには船で運んできた荷を揚げる倉庫や海運会社などが軒を連ねていました」とのこと。
高速道路IC付近に運送会社の物流拠点が集まっているようなイメージ?
「そうした場所のルートを確保するため、埋立と同時に4本の橋もできたのでしょう」
1909(明治42)年までの地図にはないが・・・ (◎引用元記事末尾参照)
1917(大正6)年からの地図には運河と4本の橋が (◎)
現在は横浜市立みなと赤十字病院前にある鴎橋だが、当時は今より南東側、埋立地の端にあるのが分かる。しかし、1927(昭和2)〜1939(昭和14)年の地図では・・・
「この間の大きな事件というと、ご存じのとおり1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災があり、新山下運河も完成直後に被災したのです」と、居山さん。
震災では横浜市内も大きな被害を受け、多数の橋梁が損壊した。その復興事業の一環として、鴎橋が復興されたというデータが残っているという。
横浜市建設局道路課橋梁係の「復興橋梁一覧表」にも(※)
「木桁」の鴎橋が掲載されており・・・(※)
震災復興事業により、1927(昭和2)年9月12日鴎橋架橋に着手、1928(昭和3)年2月18日に木桁の鴎橋が竣工したとある。市内の震災復興橋梁としては、比較的早い時期に手掛けられたもののようだ。
「想像の範囲を超えませんが、ダメージを受けた旧鴎橋の撤去作業は後まわしにして、とりあえずの復興橋として木桁の橋が別の場所に架けられたのかもしれません」と守谷さん。
続けて「元々、鴎橋の対岸には企業や倉庫があるのみ。橋に合わせて敷地の出入口を変更する程度で対応可能と思われるので、橋を移動させることで大きな不利益を被る人がいなかったという事情も想像できます」とお話しいただいた。
震災によって引っ越した鴎橋、このような経緯からその後も元の場所に戻されることなく、現在に至るという。
1996(平成8)年当時の鴎橋
「その後、1963(昭和38)年にパイルベント橋脚(地盤に鋼管杭などを打ち込んだ橋脚)の橋が架け換えられました。低コストのパイルベント橋は昭和30〜40年代に多く架けられたのですが、耐震性に問題があると分かってきました」
そこで、2001(平成13)年に耐震補強がなされ、さらに2004(平成16)年には隣に新橋を連結架橋して、現在の姿になったそうだ。
今では中央分離帯もあるこんな立派な橋だ!
「新開橋」「見晴橋」架け替え物語
鴎橋の引っ越しを聞くと、橋にも引っ越しがあるという事実に驚きを感じたが、実は意外と身近なものらしい。
「ドライブ中に“工事中迂回”の看板に出会うことはよくありますが、実は橋の架け替え工事で仮橋への迂回を促されていることも多いのです」
新山下運河の新開橋、見晴橋も、そんな迂回を伴う工事を経て近年架け替えられた橋だ。新開橋は1933(昭和8)年の竣工から80年以上が経過しており、老朽化が進行。1961(昭和36)年竣工の見晴橋では鋼製橋脚の水中部分に損傷が見つかり、ともに架け替えが行われた。
事業年数は新開橋が2007(平成19)年から2012(平成24)年の約5年間、見晴橋は2008(平成20)年から2010(平成22)年の約2年間。具体的なプロセスについて、新開橋の架け替えの様子を振り返ってみると・・・
新開橋の旧橋の脇に迂回用の仮橋を架橋して(※)
旧橋を撤去(※)
新しい橋を架けてから仮橋を撤去し(※)
晴れて開通!(※)
ここまで約5年。“工事中迂回”看板の奥で、こんなダイナミック作業が展開されているとは、シランカッタ!