100万円する高価なカメラも! 日ノ出町の「大貫カメラ」に突撃!
ココがキニナル!
日ノ出町駅そばの「大貫カメラ」がキニナリます。店頭に飾られているカメラのほとんどが普段、見たこともないようなクラシックカメラです。客層や一番高いカメラは何か、是非取材を!(横濱マリーさん)
はまれぽ調査結果!
1934(昭和9)年から続く老舗カメラ店で、お客さんは高校生から80歳まで。取材時、最も高価だったカメラはライカで96万7千円!
ライター:比嘉 晃司
クラシックカメラが「現役」だった時代
キニナル投稿によると京急・日ノ出町駅のそばに、クラシックカメラの専門店があるらしい。しかも高価なカメラがたくさん店頭に並んでいるとのこと。
取材させてもらう前に、まずはおさらいしておこう。
一般的に1960年くらいまでに製造されたカメラのことをクラシックカメラと呼んでいるそうだ。(本稿では1960年以降に製造された「フィルムカメラ」もクラシックカメラの一部と定義して話を進める)
当然だがクラシックカメラが最初から「クラシック(=旧式のカメラ)」だったわけではない。発売当初は新品であって、その時代の映し出した最先端の機材だった。まずはその「現役時代」を振り返ってみよう。
1940~1960年代・戦中、戦後
1932(昭和7)年にドイツで発売されたレンジファインダーカメラである「ライカⅡ型」は高性能小型カメラの先駆けとなったモデルだ。このころ、カメラは一般に手の届かない高級品で、使用者の多くはプロのカメラマンだった。
横浜大空襲直後の桜木町駅から中心市街地(1945<昭和20>年 提供:横浜市史資料室)
ホテルニューグランド前のマッカーサー司令官(1945<昭和20>年 提供:同)
1960~1980年代・高度経済成長期~バブル期
カメラが庶民に普及していく時代。そして国産カメラが「メイド・イン・ジャパン」として評価されはじめた時代だ。1950年代から評価の高かった二コンFシリーズに加え、1971(昭和46)年に発売されたキヤノンF-1は今日も評価が高い。
新横浜駅プラットホーム(1966<昭和41>年 提供:同)
市電全線廃止記念花電車(中区町通り)(1972<昭和47>年 提供:同)
横浜博覧会開幕の日(1989<昭和64>年 提供:同)
1990~2000年代・デジタルカメラの登場
時代は昭和から平成へ。パソコンや携帯電話、そしてデジタルカメラが普及していく時代だ。
建設中の横浜ランドマークタワー(1991<平成3>年 提供:同)
みなとみらい21地区(2000<平成12>年 提供:同)
このころになるとデジタルカメラによる撮影が増えていく。フィルムカメラが徐々に「現役引退」を始めた時代だ。
大貫カメラへ突撃!
お店の外観。取材日はあいにくの雨だった
京急・日ノ出町駅から徒歩3分ほどの場所にある、大貫カメラは1934(昭和9)年創業の老舗カメラ店。今ではあまり見かけなくなった「街のカメラ屋さん」といったたたずまいだ。
店頭に並ぶクラシックカメラ
ショーウインドーのカメラは確かに、古い写真館にありそうなカメラだ。
今回案内してくださったのは、同店店長の持塚幸男 (もちづか・ゆきお)さん。
クラシックカメラのエキスパート。しかしとっても気さくな方だった
手元の写真は、戦後間もないころの同店の写真。1945(昭和20)年には空襲により同店周辺(宮川町)は焼け野原になったそうで、その翌年、店舗を再建して事業を再開したころの1枚。
手元の写真を拡大
創業者は英語が堪能だったため、米兵相手に写真撮影も手掛けていたそうだ。
さらに一部を拡大
写真の左、赤丸の部分。これが今の松阪屋のビルらしい。
お店の看板を拡大
看板の文字に「A.P.S Amateur photo store」そしてH.ONUKIと書かれている。
大貫カメラの歴史
創業者の大貫廣治氏(左)2代目の典夫氏(右)
創業者の大貫廣治(おおぬき・ひろじ)氏は日本郵船で外国航路の客船の船員として、船の中で写真撮影の仕事を行ったことをきっかけに写真に興味を持ち始める。1934(昭和9)年に日本郵船を退社すると宮川町に「大貫寫眞(しゃしん)材料店」を開業。
当時はカメラが高価だったため、フィルムや現像液の販売、およびフィルム現像からのスタートだった。その後、朝鮮戦争を経て高度経済成長期に入り、カメラの需要が一気に拡大。2代目の典夫氏の時代になると経営の合理化が進められ、現在は3代目の達生氏に至る。