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戦時中、鎌倉市にあった極秘施設「大船収容所」ってどんなところ?

戦時中、鎌倉市にあった極秘施設「大船収容所」ってどんなところ?

ココがキニナル!

国際法上機密にしていたことで、日本史的にもほとんど知られていない大船収容所について知りたいです。米兵の捕虜収容所として栄区に隣接する鎌倉市玉縄にあったそうです(栄区かまくらさん)

はまれぽ調査結果!

戦時中海軍が捕虜からの情報を聞き出すために作った尋問所。正規の捕虜収容所ではない国際法上の違法な存在であったため、戦後関係者が重く処罰された

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ライター:小方 サダオ

鎌倉の山間にあった秘密の捕虜収容所


 
大船に捕虜収容所があったという。地図で見ると鎌倉市内陸部の山に囲まれたあたりにあったようだが、その理由はなぜなのだろうか? 投稿のように機密の存在であったことと関係があるのだろうか?
 
まずは現地に向かった。
 


大船収容所があったのは鎌倉市植木(青矢印、Googlemapより)

 
JR大船駅南口を降り、柏尾川を南下ししばらくして右折すると、トンネルの先に室町時代に北条早雲(ほうじょう・そううん)が築いたとされる玉縄城址がある。その手前の龍宝寺(りゅうほうじ)のあたりに、大船収容所があったという。
 


玉縄城址へと続く道路

 
龍宝寺の関係者は収容所について何か知っているのだろうか。
住職に伺うと「境内の墓地に収容所で亡くなった捕虜たちの卒塔婆(そとば)が立っており、年に一度施餓鬼(せがき)供養を行っています」とのこと。
 
戦後70年以上経っても、収容所で犠牲になった捕虜たちの慰霊は続けられているようだ。
 


3代目玉縄城主の北条綱成(ほうじょう・つなしげ)と関わりのある龍宝寺
 

龍宝寺の社殿
 

境内の墓地内に建つ犠牲者の卒塔婆

 
戦時中の連合軍捕虜の実態などについて調べているPOW研究会のホームページには、会員がこの収容所を見学に来た時の様子が載っている。
「卒塔婆には以前は6人の名前が記されていたが、今は『大施餓鬼会為当山門前捕虜収容所戦没者諸英霊菩提追善供養塔』とだけ記されている」とある。
 
卒塔婆は一定期間で新しいものに変えられているようで、以前は死亡した捕虜の名前が載っていたという。
 


お盆に法要が営まれるという
 

法要の度に卒塔婆が立て替えられる

 
住職によると、現在は駐車場になっている空地を中心とした場所に捕虜収容所が建っていたとのことだ。
 


収容所が建っていた場所
 

捕虜収容所があったあたり(青丸、Googlemapより)

 
 
 

周辺住民には捕虜収容所の思い出はあるのか


 
周囲は住宅地になっているが、当時の様子を知る人はいるのだろうか。
 
近隣に住んでいる白崎さんという93才の男性に伺うと 「私が中学生ごろの時、収容所は高い板塀で囲まれていましたが、家の裏山に上ると中が見えたので、スパイ扱いされないように隠れて覗いていました。捕虜は3~4ヶ月ほど一定期間収容し、尋問していたようです。そのため人数の変動はありましたが、いつも十数人ほど収容されていました。一列に並んで体操などの運動をしていたのを見たことがあります」という。
 


当時の思い出を語ってくれた白崎さん
 

裏山から収容所の中が見えた

 
また、捕虜は収容所の外に出て、地域との交流を持つこともあったようだ。
「『捕虜の1人を、玉縄小学校の運動会で模範演技として走らせたい』と施設の責任者が提案したことがあり、その時には、私も見に行き、その堂々とした姿に感激しました」と話してくれた。
 


現在の鎌倉市立玉縄小学校(当時は玉縄国民学校)

 
収容所があった場所の向かいに住む女性に声をかけると、この方は以前に前出のPOW研究会の取材を受けたことがあるという。捕虜だった外国人2人を伴っていて、収容所があった当時のことを話したそうだ。
「以前は玉縄小学校の校舎だったので、建物は2~3棟ありました。2人組の日本兵に連れられて5~6人の捕虜が山に防空壕を掘らされているのを見たことがあります。しかし収容されているのは将校クラスの軍人だったようで、待遇は悪くなかったそうです」という。
 


収容所があった所の向かいに住むTさん家には「収容所の監視塔の礎石」がある
 

監視塔の礎石だといわれるもの

 
「絵が上手だった私の兄は、当時のハリウッドスターの絵を描いて捕虜たちのもとへ持って行って塀越しに見せ、チョコレートと交換してもらっていました」。
 


1992(平成4)年に当時を知るTさんの兄・小坂善和さんが描いたイラスト

 
収容所の様子については、「収容所のコック長が近くの宿泊所に住んでいましたが、捕虜は食事で出たゴボウについて『木の根を食べさせるのか』と文句をいっていたそうです」と、エピソードを教えてくれた。
 
また、終戦から捕虜たちがいなくなるまでの様子について、「戦後は米軍が収容所の周囲に、捕虜のためにたくさんの救援物資を落としました。近所の大きな八百屋さんにも冷凍庫にたくさんの魚などが保存されていましたが、それらも捕虜のためのものだったそうです」とも話してくれた。
 


戦後米軍機が落とした補給物資を嬉しそうに運ぶ捕虜たちの様子

 
先ほどの絵とチョコレートを交換してくれたというエピソードからも分かるように、地域や周辺住民との交流もあったことがうかがえる。
実際、女性がいうには「秘密の収容所のように言われていましたが、特別悲観的な雰囲気はありませんでした。また捕虜の脱走など怖いこともありませんでした」とのこと。
 
 
玉縄歴史の会・関根はじめさんに話を伺う・・・キニナル続きは次のページ>>