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横浜生まれのプロレスラー、鈴木みのるさんを徹底解剖!【前編】

横浜生まれのプロレスラー、鈴木みのるさんを徹底解剖!【前編】

ココがキニナル!

横浜生まれのプロレスラー、鈴木みのるさんを徹底解剖!【前編】

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ライター:山口 愛愛

「世界一性格の悪い男」の異名を持つ“プロレス界の海賊”鈴木みのるさん。悪の称号を手に入れられるのはトップレスラーであり続ける証だ。

総合格闘技パンクラスからプロレスまでさまざまな団体を渡り歩き、これまでに巻いたベルトは、キング・オブ・パンクラシスト、高山善廣(たかやま・よしひろ)さんとタッグを組んだIWGPタッグ王座、NEVER無差別級王座、GHCヘビー級王座、三冠ヘビー級王座、IWGPインターコンチネンタル王座、イギリスの団体RPWブリティッシュ・タッグ王座などほしいままにしてきた。プロレス団体の枠を超え、海を渡り、どこにでもベルトを奪いにいくまさに海賊王だ。

そんな鈴木みのるさんは横浜市西区の平沼商店街育ち、横浜高校レスリング部出身というバリバリのハマっ子。

 

西区出身のハマっ子レスラー
 

デビュー30周年を記念し、2018年6月23日(土)、24(日)には自らプロデュースする「大海賊祭」を地元の横浜赤レンガ倉庫で開催する。なんと入場無料でトップレスラーのオカダ・カズチカ選手とのスペシャルマッチを魅せるというから驚きだ。

ざっとプロフィールを並べただけでもキニナルことだらけ! プロレスのコアな話は専門誌にお任せし、横浜の街の思い出、宮城県石巻市で被災したことをきっかけに活動してきたチャリティーイベント、大海賊祭への思いに迫る。
 

鈴木みのる
誕生日: 1968年6月17日
血液型: B型
職 業: プロレスラー
所 属: パイルドライバー

 
 
 

フラれた女子が勢ぞろいした思い出のデビュー戦


 
―鈴木さんのご実家は西区の平沼商店街の酒屋さんなんですよね。わたしは松原商店街生まれです。ご近所商店街生まれということで、本日はよろしくお願いします。
 
マジっすか。松原商店街の「ホワギョー」(ホワイト餃子)がなくなったって本当ですか?
 
―そうなんですよ。かなり前(2005〈平成17〉年)になくなってしまい、残念です。
 
よく中学生のときに行ってたんですよ。僕、岡野中学なので上履きのまま抜け出して(笑)。
30個(餃子)ライスとか食ってたんですよ。1個が大きいですよね。残念。
 


自身が経営する東京都原宿の「パイルドライバー」にて取材

 
―横浜駅周辺の思い出がいろいろありそうですね。
 
今は綺麗になっちゃったんですけど、横浜駅の近くにJR線の線路があって、開かずの踏切だったんですよ。昔は古い造りの橋がかかっていて、家の前にトンネルがあったんです。そこに自分でバッターを描いて当時は「平松(政次、ひらまつ・まさじ)一球投げました、ストライク!」と実況して一人で遊んでましたね。サッカーのゴールを描いて、一人でシュートを打ちまくったりしていました。
 
家の酒屋の配達を小さいときからやっていて、すぐに声をかけられる場所にいないといけなかったので。近所の配達に1回行くと親から50円とかもらってましたね。
今年50歳になるんですけど、今でも平沼商店街をたまに歩くと、近所のタバコ屋のおばちゃんとかに「みのちゃーん」って呼ばれて。イメージが狂っちゃう(笑)
 


海賊と呼ばれているのにね(笑)

 
―子どものころからプロレスに興味があったんですか?
 
小学生のころからプロレスが好きで、中学のころは日本中がプロレスブームで視聴率が20%ぐらいあった時代ですし。
 
プロレスラーになりたいけど中学生ではなれなくて、「レスリングでチャンピオンになったらスカウトされるよ」と中学の先生が言ってくれたので、レスリングの強い横浜高校に入ったんですよね。やったことがないくせに(笑)
 
運動神経はそこまでよかったわけではないんですが、高校に入って練習してすごく体型も変わりました。急に逆三角形になって。走るのが嫌いでしたが、毎日何十kmも走らされているうちに長距離も短距離もものすごく速くなりました。僕より早いのは陸上部のキャプテンだけでしたからね。
 
―高校生のころから相当なトレーニングを積んだのですね。
 
レスリングは全ての能力を身につけないといけないので。
瞬発力、重いもの持ち上げる力、懸垂などの筋力トレーニングもすごくやるし、長距離も短距離も階段も走るし、それでいて格闘技ですから根性も鍛えられます。レスリングは全て詰まっていてすごいと思います。
 
僕は運良く高校1年生の秋から毎週末に国士舘大学に入って練習させてもらっていたんです。当時の監督が国士舘の出身だったので。
 


レスリングは多岐にわたり能力を付ける必要がある
 

―強くなりたくて大学生と練習していたのですか?
 
横浜高校のレスリング部に入った時には部員が40人近くいて、練習も厳しくインターハイで活躍する選手もたくさんいて。最強の学校だったんですよ。
でも1年生のときに3年生が県予選で負けちゃったんですよね。3年生って一学期で引退しちゃうじゃないですか。そしたら今まで押さえつけられていた気持ちが爆発して、みんな一気に辞めちゃって。
 
そんなに強くない先輩2人と僕と3人しか残らず、部が存続できないところまで来て。誰にも内緒で退学届けと退部届けも書いて学校に持っていったんです。「僕は日本一になるためにこの学校に来たのにこれじゃ日本一を目指せません。違う方法でプロレスを目指すことにします。お世話になりました」って先生に言ったんですよ。
  
―その決断には先生もびっくりですね。
 
そうですよ。「ちょっと待て、これは親知ってんのか」と聞かれて、「いや親は関係ないです」って言って。
そしたら先生が「そんなに強くなりたいなら環境は何とかしてやる」って言ってくれたんです。それで用意してくれたのが大学での練習なんですよ。「強いやついっぱいいるぞ」って。
でもあとから「失敗した、こんなに強いとこに入れられるなんて」と思いました(笑)
 
高校生と大学生では大人と子どもですから何もできなかったですよね。当時は国士舘大学が大学日本一を争っているレベルだったので、おかげで、どの高校生よりも強くなりました。
日本代表とかオリンピック強化選手に選ばれて、さらに上の高いレベルでやれるようになりました。
 


日本代表としてアメリカ遠征などに参加していた

 
―高校時代の試合で、一番の思い出は何ですか?
 
そこまでしたのに日本一になれなかったこと。高校時代の一番の思い出は「悔しい」です。高校3年生の時の国民体育大会の決勝で負けたんです。

直前の練習試合までは余裕で勝っていた相手に負けちゃったんですよ。日本一になることを目指して横浜高校に入ったのに。2位でもすごいじゃんって言われても悔しくて仕方がなかった。恥ずかしい。
 
―そういう悔しい思いが、のちのベルトにつながっているんでしょうか。
 
それはあるかもしれませんね。でもチャンピオンになった今でも満足することはありませんね。