検索ボタン

検索

横浜のキニナル情報が見つかる! はまれぽ.com

名字のルーツは?神奈川に多い鴨志田さん&土志田さんを追え!

名字のルーツは?神奈川に多い鴨志田さん&土志田さんを追え!

ココがキニナル!

神奈川県を代表する名字の鴨志田さんと土志田さんは下二文字が一緒。また、横浜市青葉区には鴨志田という地名も。鴨志田さんと土志田さんの名字のルーツについて知りたいです(ポスポスさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「鴨志田」は青葉区鴨志田が発祥の地である可能性が高い。鎌倉時代には「鴨志田十郎」という武士がいた。「土志田」は、他の土地から移動してきた可能性が高い。

  • LINE
  • はてな

ライター:ハヤタミチヨ

冒頭から個人的なことだが、ライター・ハヤタは「鴨志田(かもしだ)」さんという知り合いがいた。しかしその人は北関東あたりに住んでいた気がする。そのため、横浜に多い名字というのは意外に思えた。さらに「土志田(としだ)」という名字はハヤタがまだ出会った人にいない・・・。
これはとてもキニナル・・・!ということで、早速調べてみることに。
 
 
 
鴨志田さんが多い地域は?
 
まずは、鴨志田という名字から調査した。
そもそも、本当に横浜に多い名字なのか、ざっとインターネットで調べてみる。利用したのは「名字由来net」。
 


(画像:「名字由来net」

 
ふむふむ・・・鴨志田が最も多いのは茨城県のようだが、確かに神奈川県も多い。
 
図書館で姓氏の辞典や郷土史の本を調べたところ、「鴨志田」は横浜市青葉区鴨志田が発祥地と考えているものが多かった。また、青葉区鴨志田には、鴨志田氏に関わる伝説や遺物も残っているらしい。
 
 
 
鎌倉時代にも鴨志田さんがいた
 
まずは、鴨志田から深掘りしてみよう。鴨志田氏の歴史について調べてみた。

「鴨志田」という人物が登場する一番古い史料は、鎌倉時代の吾妻鏡(あづまかがみ)だ。


新刊吾妻鏡(江戸時代の写本 国立国会図書館デジタルコレクションより)

 
吾妻鏡』は鎌倉幕府の公的な記録で、歴史の教科書にも載っているメジャーな史料。ここに、「鴨志田十郎」という人物が2度登場する。
 
1度目の登場は1190 (建久元)年11月、将軍である源頼朝が京の都に入る時の行列の中にいる随兵(警護のためにお供をする兵)として登場。2度目は頼朝が奈良の東大寺へ行った時に、同じように随兵として登場している。
 
鴨志田氏は、この『
吾妻鏡』の記述以後は登場しない。鴨志田氏のその後は?茨城県に多い鴨志田との繋がりはあるのだろうか?また、他の史料はあるのだろうか?
 
 
 
日本史研究者に電話取材!
 
鴨志田氏の歴史がいろいろキニナルので、横浜市立歴史博物館へ問い合わせてみたところ、横浜にある地名の歴史について誰よりも詳しい方として、日本史学者の盛本昌広(もりもと・まさひろ)さんを紹介していただいた。実は歴史好きなハヤタも本を読んだことがある著名な研究者だ。光栄にも「電話取材ならば」ということで、お話を伺った。
 


盛本昌広さんは横浜市出身の歴史学者。画像の本以外にも多数の著書がある

 
お話によると『
吾妻鏡』に2回登場するということは確認できるが、やはりそれ以後は、盛本さんも史料上で名前を見たことがないとのこと。
 
鴨志田という名字が茨城県にも多いということについては、「『
吾妻鏡』の記述から見ても鴨志田氏は横浜発祥の可能性は高い」とされ、「常陸(茨城県)に多いのは、地頭職を常陸でもらった可能性があります(史料の実証はないですが)。武蔵などの御家人で常陸に地頭職を与えられた者は史料で多数見られます」とのことだった。(※常陸=茨城県の昔の国名/武蔵=横浜市域は「武蔵国」の中にあった/地頭職=その土地を管理支配する職)
 
なるほど、茨城の鴨志田さんは、横浜の鴨志田から移住した人達という可能性もあるのだ。
そんな鴨志田さんのルーツが横浜にあるならば、行って見ないわけにはいかない。
いざ、鴨志田発祥の地へ!
 
 
 
鴨志田の地を歩く
 


青葉区鴨志田。バス停のまわりは団地や住宅が立ち並ぶ

 
この鴨志田には、横浜市の指定文化財「板碑(いたび)」がある。寛元2年、西暦1244年の銘があり、県内最古とされている板碑だ。市の指定文化財ということで横浜市教育委員会に撮影について問い合わせたがNG。所蔵者とコンタクトをとるのも難しいとのことだった。板碑そのものが見たい方は、青葉区や横浜市の文化財のWEBサイトに写真や解説が掲載されているので、そちらで御覧いただきたい。
 


そんな事情から、撮影は道路から板碑のある場所のみをパチリ

 
現在も使われている墓地の、奥の小さな覆屋(おおいや)の中に板碑はあった。時の流れか・・・刻まれた文字は梵字の影がわずかにあるな・・・というくらいに読みにくい。覆屋の前には古く小さな石塔や墓石が並んでいた。
 
この地はかつて「念仏堂跡」と呼ばれた地で、1972(昭和47)年に土地整備された時に、板碑など古い墓石はまとめて今の場所に置かれた。整備の時に板碑を抜くと、骨壷が埋められていたそうだ。その被葬者は鴨志田十郎かその一族と考えられている。つまり、この板碑は、鎌倉時代の鴨志田氏の墓碑かもしれないということだ。

板碑のある墓地は住宅地の中。こんなところに文化財があるというのも意外にも思えるような現代的な生活の場で、板碑のまわりだけタイムスリップしたような場所だった。

坂を降りて寺家方面へ抜け、次に訪ねたのは「甲(かぶと)神社」。
 


静寂に包まれた「甲神社」

 
この鴨志田の地を守る鎮守の神様だが、創立年代ははっきりしない。周囲では石器などが出土し、古くから人が住む集落があったと考えられている。城跡だったという言い伝えもあるそうだ。

また、このあたりと思われる「かぶとの森」では、源氏に仕えていた鴨志田氏が落ち延びてきて、この森でかぶとを脱ぎ百姓に姿を変えたという伝承もあるという。
 


神社の参道には古い塔や石碑が並んでいた

 
神社より少し上にのぼり、青葉区のホームページでウォーキングコースとして紹介されている道のひとつ、「寺家・鴨志田里山めぐりコース」の「歴史ある里山の道」へ向かう。説明によれば
「下の大通りから続く山道は江戸時代の古地図に記載されています。鎌倉時代初期までは鴨志田一族がこのあたりに住んでいたようです」
とのこと。
 
さっそく畑の中にぽつぽつと家がある、のどかな道に歩みを進める。
 


右手に寺家方面の田畑を見下ろせる

 
途中、右手に甲神社の森が見えた。石器が出土したというのは、ここから神社までのあたりだろうか。
 

 


道の終わりで見上げれば、先に見た板碑のある墓地だった

 
 
 
鴨志田という名字についてまとめ
 
先にも書いたが、鴨志田氏は『
吾妻鏡』に2度登場して以後の足跡が消えている。
甲神社の伝説のように、争いから落ちのびて、現地で百姓となったのか・・・あるいは離れた地へ移動して土着したのか。一族が別々になったのか、わからない。だが、文字史料の中にも、現在の鴨志田の地にも、確かに鴨志田氏のいた痕跡は残っていた。