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横浜育ち!元プリンセスプリンセスの中山加奈子さんってどんな人?前編

横浜育ち!元プリンセスプリンセスの中山加奈子さんってどんな人?前編

ココがキニナル!

伝説のガールズロックバンド・プリンセスプリンセスのギタリスト中山加奈子さんってどんな人?

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ライター:山本航

すっかり真夏のような猛暑の中、渋谷のとある音楽スタジオに涼しげな笑顔と白いワンピースで登場した、中山加奈子さん。日本を代表するガールズ・ロックバンド、元プリンセス・プリンセスのギタリストだ。
そのワンピース姿は一見お嬢様風と思いきや、ローリング・ストーンズの40周年ツアーグッズで、全面にあの有名なベロマークがあしらわれていた。可愛いだけじゃない、過激なだけじゃない。独特の魅力で日本中の音楽少年少女を虜にしてきた彼女らしい、コーディネートだ。
実は彼女は横浜生まれではない。しかし中学・高校と多感な時期を横浜で過ごし、横浜でロックに感化されていく。
そんな彼女のパーソナリティーの原点を探るべく、インタビューに臨んだ。
 

 

中山加奈子(なかやまかなこ)
誕生日:1964年11月2日
出身地:京都府京都市
血液型:B型
身 長:156cm
所 属:Lip Mark Records
HP:kanakonakayama.com

 
 
 

ステージデビューは、まさかの演劇部で悪魔役!
 
―本日はよろしくお願いします。まず、お生まれは京都だとお聞きしましたが。
 
そうです。京都で生まれて、小学一年生のときに、東京の目黒区に家族で引っ越しました。
 
―横浜はいつからですか?
 
小学校卒業と同時に、横浜の金沢区に引っ越しました。中学校から横浜ですね。
 
―どんな少女時代でした?
 
元々おとなしい方でした。
小学生の時、京都から東京に引っ越してきたときに、東京の子はあまり外で遊ばないイメージがあったんですけど、活発な友だちが多くていつも外で遊んでいました。遊ぶ場所を見つけるのがうまかったんですよ。団地の隅っこのちょっとした砂場とか。下校時間ギリギリまでいつも校庭で遊んでいましたね。
クラス中の仲が良くて、友だちがいっぱいいました。今でも、年に3~4回は一緒にご飯を食べる友だちもいます。
 


ローリングストーンズのワンピースがキュートな中山加奈子さん

 
―横浜に引っ越してから、東京と横浜の違いは感じました?
 
私の入学した中学校がは全校生徒2000人くらいいて、一学年で13クラスあったんです。
 
ー多いですね・・・。
 
しかもみんな探り合いで、小学校からの仲良し同士で固まりがちでしたね。
そこに転校生でポンと来たものだから、その輪に入りづらくてひとりでポツンといることが多かったんですよ。別に仲間はずれにされたとか意地悪をされたわけじゃなくて、一緒にお昼ご飯を食べようよとか気を遣われるのも嫌なので、ひとりで池の周りを散歩したりしてましたね。でも、演劇部に入ってからは、だんだん友だちができました。
 
―えー!?中山さんが演劇部?(驚愕)
 
はい。ベルバラ(ベルサイユのバラ)がブームで宝塚に夢中だったんで、自分もやってみたくて。それで宝塚が好きな友だちも出来ました。
実はこの演劇部、OBには劇団四季や女優でデビューした人がいるほど活発な活動をしていた演劇部だったんですよ。
最初の文化祭の舞台で、悪魔役を決めることがあって・・・どうしてもその悪魔役がやりたかったんですよね(笑)。
お母さんが買い物に出たのを見計らって練習したり、とにかく自宅でいっぱい練習しました。
 


人生初舞台は、音楽ではなく演劇だった

 
で、その苦労が実って悪魔役に選ばれたんです。
その舞台でスポットライトを浴びたら、ステージってなんて気持ちいいんだ!と。これがまさに私の人生初舞台でした。それからは演劇に夢中になりました。
 
ー初めてのステージが音楽じゃなかったなんて、本当に意外でした。
 
毎年夏に、神奈川県の学生向けに青少年センターで演劇イベントが開催されていたんですが、それにも端役ですが参加していました。だから卒業の寄せ書きには、「加奈ちゃん、いい女優さんになってね」とか書かれていたくらい(笑)。
友だちは私が演技の道に進むんだと思っていましたね。
 
―高校生になってからも、演劇を続けようと思っていましたか?
 
高校受験の勉強をしながら、毎晩ラジオの深夜放送を聴いていたんですよ。ポットを机の脇に置いて「赤いきつね」を食べながら(笑)。オールナイトニッポンとかいろいろ聴いていたら、音楽もいいなーと思ってきて。
 
―ちなみに楽器はいつから始めたのですか?
 
いつか宝塚音楽学校を受験したいと思っていて、小学生のときにピアノを習っていましたけど・・・ほんの3ヶ月です(笑)。横浜に引っ越したときにやめちゃいました。ギターは高校の合格祝いで、いとこがフォークギターを買ってくれたんです。それでフォークギターの教本を見ながら練習したりしていました。ポプコン(YAMAHAポピュラーコンテスト)を見たり、長渕剛さんに憧れたり、フォークの歌詞がいいな~と思って、自分で作詞もするようになりました。
 
 
 
ロック人生、高校でスタート!
 
・・・でも高1の文化祭のときに男子たちがロックバンドを組んでいるのを見てカッコいいー!って感動しまして。翌日には一緒に感動した女友だちにあちこち声をかけて、女の子6人でガールズロックバンドを結成しました。ディープ・パープルとKISSを合わせて、
「DEEP KISS」という名前です。

―えー!?いきなり!しかも、当時は日本にプロの女性バンドってほとんどいない時代ですよね?

はい。だから女性バンドは洋楽カヴァーばかりで、GO-GOʼSとかTHE RUNAWAYSとかのカバーをしていました。邦楽はLAZYの「赤頭巾ちゃん御用心」とか沢田研二さんの「ス・ト・リ・ッ・パ・ー」とか、みんなでやりたい曲を持ち寄って練習しましたね。
 


大好きなTHE RUNAWAYSの影響がプリンセスプリンセスでも・・・

 
―当時はギターとボーカルですか?

いえ、ギターだけですね。コーラスもやらなかったんじゃないかなー。オリジナル曲もやらなかったです。バンドをしている男友だちに各パートごとにマンツーマンで教えてもらったりしていました。
それで、2年生の文化祭は自分たちのバンドで出演しました。その時にすごいウケて、またスポットライトを浴びて「気持ちいい!いつまでもこの中にいたい!」と思いました。

―なんか青春。いよいよ音楽漬けの毎日ですね。

横浜はロックが盛んだったので、学校内でもロック好きが集まったり、横浜商業高校や日野高校のロック好きとか、色々な学校の子とスタジオで仲良くなって、みんなでそれぞれの練習を覗いたりして、学校を越えた交流がありましたね。
それ以外にもギターの上手い子がいるとか、いいバンドがいるとか情報が入るとすぐに飛んで行きました。
洋光台、港南台、長者町、どこでも行きました。でも高校生だからお金がなかったですね。だから、長津田に行くときには電車賃が足りなくて、学生カバンを売って電車賃を作りました(笑)

―うわー!まさにロック(笑)。学生カバンで通学しないで、怒られたりしなかったんですか?

その辺はゆるかったんですかねー。カバンもジュラルミンケースを使いました。

―ジュラルミンケース!?ゴルゴ13みたいですね(笑)

あ、そういうんじゃないですよ(笑)。ハードロックシーンで流行っていたので、ベタベタとシールを貼って雰囲気もマネてました。伊勢佐木長者町の「スタジオ24」でよく練習していたんですが、予約を取ったり、スタジオに入ってアンプの使い方を近くにいた男の子に教わったり、何もかもが楽しかったですね。
それこそギターとシールドを下げて歩いてる自分とか、そんなロックをしている自分の姿が嬉しかったなぁ。ファッションや髪型もロックスターをマネて・・・でも基本的にお金がないから、いろいろ工夫しました。
 
ー例えば?
 
黒のスリムパンツが欲しいから自分でパンツを詰めたり、革ジャンはビニール製だったり、ロンドンブーツの代わりにレッグウオーマーを合わせて長く見せてました(笑)。
 


ロック好きに流行していたジュラルミンケース(イメージ)