知っているようで意外と知らない!? 横浜市内で一番長い住所と短い住所はどこ? 文字数編
ココがキニナル!
横浜で一番長い住所、一番短い住所(文字数や読み方など)が気になります!(おまさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜で一番長い文字数の住所は「保土ケ谷区瀬戸ヶ谷町」、一番短い住所は「中区元町」。どちらも横浜の歴史を語る上で欠かすことのできない場所だった。
ライター:篠田 康弘
「京都府京都市東山区三条通南裏二筋目白川筋西入二丁目南側南木之元町」
京都府に実在する住所だ。計32文字。
「千葉県旭市ロ」
千葉県に実在する住所だ。計6文字。ちなみに読み方は口(くち)ではなくカタカナの「ロ」だ。
インターネットで全国の長い住所と短い住所を検索したところ、このような結果がすぐに表示された。
横浜の一番長い住所と短い住所を聞かれて、即答できる人は少ないのではないだろうか。皆さんに代わって、はまれぽが今回は「文字数」について調査してみた。
実は複雑な住居表示
最初にお断りしておくが、住所表記には「地番」と「住居表記」の2種類(地域によってはこれに「通り名」を加えて表記することもある)があり、どちらの表記方法を取るかで長さに違いが出てくる。基準を統一するために、今回は横浜市市民局が作成した「横浜市の町名一覧」に記載されている「○○区△△」を「住所」として扱うことにする。
横浜市市民局のホームページ。こちらから町名一覧をダウンロード
こちらの町名一覧から
・ 記載されている住所の文字数をカウント
・ 同じ文字数の場合は、総画数で判断
・ 総画数も同じ場合は、読みがなの文字数が多いか少ないかで判断
という手順で候補をリストアップし、市役所の住居表示担当に確認して、それぞれの住所を確定していった。
それでは、一番長い文字数の住所と短い文字数の住所を紹介していこう。
一番長い住所は、緑豊かで閑静な住宅地
横浜で一番長い住所は「保土ケ谷区瀬戸ヶ谷町(せとがやちょう)」。
横浜市を構成する18区の区名の中で、一番文字数が多い保土ケ谷区の住所が1位を獲得!
地名の由来について、『横浜の町名』には・・・
横浜市内の全町名の由来が書かれている、とても便利な本
「昭和15年に岩間上町、保土ケ谷町の各一部から新設した街。地名研究で『セト』とは『狭処』あるいは『狭戸』で、谷戸にちなむ地名という」
と書かれている。ちなみに「谷戸」とは、谷状の地形のことを表す言葉だ。
また「瀬戸」という言葉を辞書で調べてみると「幅の狭い海峡」と書かれている。
谷に挟まれた地形にちなんで、この付近は古くから「瀬戸ヶ谷」という字名で呼ばれており、1940年(昭和15年)の保土ケ谷区の再編成で、正式に瀬戸ヶ谷町という住所になったのだ。
続いて、「瀬戸ヶ谷町」がどのような場所か紹介していこう。
瀬戸ヶ谷町の住所表示
首都高速神奈川3号狩場線が町内を横断
緑豊かな斜面に住宅地が広がる
町内を流れる今井川では、鯉や亀が元気に泳いでいた
取材中、瀬戸ヶ谷町在住の方に、どのような土地かをうかがうことができた。
瀬戸ヶ谷町在住の宮内さん。とても親切に色々教えてくれた
1953(昭和28)年ごろから瀬戸ヶ谷町に住んでいる宮内さんは、自分が住み始めたころの瀬戸ヶ谷町を
「急な谷間に狭い道がちょっと通っているだけの、人の住むようなところではなかった。家もほとんどなかった」と話していた。
その後、谷を切り崩して狩場線の建設や住宅地の造成を行い、住人の数が増加。それに合わせるように道路が整備され、現在の瀬戸ヶ谷町ができ上がっていったそうだ。
現在の狩場線と住宅地。谷間を造成して建設されているのがよく分かる
ちなみに、一番長い地名であることを知っているかどうかたずねてみると
「もちろん知ってるよ。区名も地名もここが一番長いんだよ」という返事が返ってきた。即答であった。
一番長い住所にあった、横浜の歴史遺産
今回、瀬戸ヶ谷町について調べた際に、何回も出くわしたキーワードがある。それは「古墳」だ。
『保土ケ谷区史』には、このよう記述がある。
『保土ケ谷区史』
「保土ケ谷区域の後期古墳として、瀬戸ヶ谷町瀬戸ヶ谷古墳が有名である。(中略)昭和25年(1950年)、開墾中に埴輪が発見されたことによって、調査が行われた。その結果。直径41メートル、後円部の高さ3.5メートルの前方後円墳が明らかにされた。(中略)この古墳は、規模や埴輪の出土などから横浜を代表する古墳であり、帷子川から大岡川の両水系を支配した人物が埋葬されたものと思われる」(原文ママ)
また古墳以外にも、瀬戸ヶ谷町からは弥生時代後期の集落跡も発見されている。水が豊かで農作業が盛んだったこの土地は、巨大の古墳を作れるほどの実力を持った人物が支配する、当時最も栄えていた場所のひとつだったのだ。
古墳の写真を掲載したかったのだが、瀬戸ヶ谷古墳も弥生時代後期の集落跡も、狩場線の建設や住宅地造成の際に取り壊され、現在は見ることができない。
かつては、この丘あたりが古墳だったのだろうか