岡野新田の開発に携わった岡野良親さんってどんな人?
ココがキニナル!
吉田新田や横浜新田など関内地区の歴史は周知されているが、神奈川湊周辺平沼地区は殆ど知られていません。岡野良親さんのこと、岡野新田他の正確な場所等が知りたい(yamaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
岡野良親さんは、保土ケ谷宿で金物を扱う豪商で、「鍋屋」という屋号で呼ばれ、親子によって開発された岡野新田は現在の岡野町に位置する
ライター:ほしば あずみ
「新田開発」は江戸時代に幕府や各藩に奨励され全国的に行われた干拓事業だ。人口増加への対応や天変地異による飢饉なども開発の理由にあげられるが、米を年貢として納めていたこの時代、農業は経済や流通の中心であった事が大きい。
実は現在横浜の中心となっている主なところはほとんどが、こうした江戸時代の干拓事業で生まれた埋立地だ。そうした複数ある新田のうち、今回は投稿にあった岡野新田を中心にとりあげてみたい。
新田の前にまず神奈川湊について
安藤広重「東海道五十三次」の神奈川宿、台の景
ここに描かれているのがいわゆる「神奈川湊」である。
投稿にあるように神奈川湊は今ではさほど知られていないが、横浜港の開港以前までは重要な港だった。歴史上では鎌倉時代まで遡ることができる。
神奈川湊の港町として発展したのが、東海道の宿場町となる「神奈川宿」。つまり神奈川宿に面した海上あたりが神奈川湊(港)のあった場所なのだ。
1874(明治7)年刊行の海図に神奈川湊を見ることができる
1858(安政5)年、日米修好通商条約で開港を迫られたのは神奈川湊だったが、東海道の宿場という要路、要所であった事と、遠浅という地理的要因のため、対岸の当時は寒村であったが湾に十分な水深もある横浜村を、「神奈川の一部」と主張して開港したのが横浜港のはじまり。
本覚寺をはじめ、神奈川宿界隈の社寺に領事館の史跡が多く残るのはその名残だ。
現在の地図と重ねてみると、神奈川湊は埋め立てられているのがわかる
開港後、発展を遂げた横浜港の陰で神奈川湊は次第に衰退し埋め立てられてしまったため現在その面影はないが、現在の横浜ポートサイド地区一帯が、かつて神奈川湊(港)だったあたりといえる。
さて、岡野新田はこの図では左端にわずかに見える着色された部分。横浜駅とその西側はこの図が作成された1874(明治7)年は、まだ入り江状だった。
描かれた新田開発?
江戸時代末期、帷子川河口の新田の概略図
帷子川の河口付近は、川の流れが運ぶ川砂で遠浅になり葦が生い茂るような様子だったといい、岡野新田の干拓以前にも新田開発が行われていた。
帷子川河口の新田の年表
新田名 | 開発年 | 開発者 |
尾張屋新田 | 宝暦年間(1751年~) | 尾張屋太仲、武平次 |
宝暦新田 (大新田) | 1761(宝暦11)年 | |
安永新田 | 1780(安永9)年 | |
藤江新田 | 1786(天明6)年 | 藤江茂右衛門 |
岡野新田 (鍋屋新田) | 1833(天保4)~1850(嘉永3)年 | 岡野良親、良哉 |
平沼新田 (麹屋新田) | 1839(天保10)~1867(文久3)年 | 平沼九兵衛五代、六代、七代 |
弘化新田 | 1847(弘化4)年 |
ここでもういちど広重の神奈川宿の絵を見てみよう。
このアングルは台町付近から横浜駅方面をみている
高台から見えるこの海は袖ヶ浦と呼ばれる景勝だった。
袖ヶ浦と呼ばれる海は全国にいくつかあるが、だいたいゆるくカーブを描き横に長く伸びる形状をしている。
神奈川湊の袖ヶ浦は明治時代の海図でもわかるように非常に遠浅だった。海図で既に埋め立てられている部分もこの広重の絵ではまだ海だ。
小船が並んで浮かんでいるあたりがちょうど、帷子川河口の入り江
実はこの景色は岡田新田の埋め立てがはじまる直前のものである。
広重の「東海道五十三次」の刊行は1833(天保4)年、岡野新田開発も同年に始まっている。そのためこの小船は新田開発の測量を行っているという説もある。