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みなとみらいは昔、どんなところだったの?(前編)

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みなとみらいって昔はどんなだったんですか?(ハ毛さんのキニナル)

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みなとみらいができるまでは造船所だった。その名残であるドックヤードがランドマークの脇に残っている。

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ライター:松崎 辰彦

みなとみらいは昔、造船所だった



それでは将来のみなとみらいになる運命を背負った埋立地はその後、どのような変遷をたどったのだろうか。

みなとみらい全体のマネージメントを手がけている『一般社団法人横浜みなとみらい21』専務理事の斉藤良展さんに話をうかがったところ、みなとみらい地区は埋め立て後に造船所になったことが判明した。その名残が今でもランドマークの脇にある。
 


『一般社団法人横浜みなとみらい21』専務理事の斉藤良展さん


ランドマークの隣に面積約720平方メートルという巨大な石積みのドックヤードがあるが、これこそが造船所の名残である。
 


ランドマーク脇のドックヤードガーデン。古代ローマのコロシアムにも似た重量感に圧倒される


海に臨んだ横浜の沿岸地(現在のみなとみらい)において修繕船事業「有限責任横浜船渠会社」を設立する計画に知事の許可が降りたのは1891(明治24)年6月4日のことである。会社設立後、現在ではランドマークタワーの脇にあるドックヤードガーデンとして知られている2号ドック、帆船「日本丸」を係留している1号ドックが完成した。

後に造船事業にも乗り出した横浜船渠は、チャールズ・チャップリンが乗船し、嘉納治五郎が船内で逝去したことでも有名な氷川丸(1930〈昭和5〉年竣工。現在は山下公園)を建造するなど、多くの船を海に送りだした。

1935(昭和10)年に横浜船渠は三菱重工業と合併し、1943(昭和18)年には三菱重工業株式会社横浜造船所と改称された。

太平洋戦争の敗戦を経て、戦後、造船ブームなどもあったが、一方で横浜と関内の間にある造船所が、横浜の発展を妨げているという見方も出てきた。そして時代は1964(昭和39)年の東京オリンピックを迎え、日本全体が大きな成長に向かいつつあった。



「六大事業」がみなとみらいの原点である



みなとみらいの原点を求めれば、1965(昭和40)年に当時の飛鳥田一雄市長によって打ち出された「六大事業」にさかのぼる。「六大事業」とは──都心部強化事業、港北ニュータウン建設事業、金沢地先埋立事業、高速鉄道(地下鉄)建設事業、高速道路網建設事業、ベイブリッジ建設事業の各事業である。

この中の「都心部強化事業」プロジェクトこそが、みなとみらい建設構想に他ならない。
当時の横浜は、横浜駅周辺と関内・伊勢佐木町周辺が発展していたが、中間の桜木町駅に三菱重工株式会社横浜造船所があることで、都心部が二分化される事態に直面していた。
 


三菱重工業横浜造船所横浜工場 1981(昭和56)年10月
(横浜市史資料室広報課写真資料)


のみならず当時の横浜は急速な人口増加の途上にあったが、市民の多くが東京に就業し、横浜は東京のベッドタウンとしての地位に甘んじていた。

東京に就業人口をとられることなく、一人でも多くの人に横浜市内で仕事をしてもらいたいという行政の思惑もあり、桜木町駅周辺に都市を作ることで横浜駅周辺と関内を結び、併せて多くの就業の場を設けるというこの巨大プロジェクトが構想されたのである。

1973(昭和48)年に2号ドックの使用が停止したが、1号ドックは1982(昭和57)年まで使用された。現在は1号ドック2号ドックいずれも重要文化財に指定されている。
 


三菱重工業の1号ドック 1982(昭和57)年9月7日
(横浜市史資料室広報課写真資料)


1979(昭和54)年11月30日、横浜造船所で最後の進水式が行われる。
具体的に横浜造船所の移転が決定されたのは翌年の1980(昭和55)年になってからであり、金沢と本牧へ移転完了したのは1983(昭和58)年3月のことである(1994〈平成6〉年に三菱重工はみなとみらいに「三菱重工横浜ビル」を建設した)。
 


三菱重工横浜ビルの近くにある、かつてここに横浜造船所があったことを示す碑