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謎の多い内田町。なぜ桜木町やみなとみらいにしなかったのか?

ココがキニナル!

花咲町の記事で地図を見て気付いたのが極小面積の町、中区内田町。古地図を見ると元々は造船所一部のちゃんとした面積を持つ町だった。なぜ全部みなとみらいと桜木町にしてしまわず残したんでしょう?(kazさん)

はまれぽ調査結果!

桜木町1丁目が内田町を食うように広げられ、取り残された端の部分が現在の内田町。しかし、あえて残された理由は、資料として残っていなかった。

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ライター:吉岡 まちこ

「内田町」は、細切れではなかった!



まず気になるのは、横浜銀行本店のまわりにある飛び地の存在。地図を製作している会社から、土地の形が正確に知りたければ、法務局に行って“公図”を見るよう教わった。
 


横浜第二合同庁舎内にある横浜地方法務局


まず不動産・住宅関係の方にはおなじみの「ブルーマップ」という、日頃見慣れている地図とは別の地図を閲覧。いわゆる○町○-○-○という普段使う住居番号をふった“住居表示”ではなく、“地番”という登記簿上の番号や公図番号、容積率等が書かれている地図だ。
 


ブルーマップそのものは転載不可。こんな雰囲気だ
(赤色の実線は区界、点線は町界を示す)


内田町には公図番号がふられていなかったため、横浜銀行本店ビルの敷地に関係ありそうな「内田町100番」という地番から公図を申請してみた。すると出されたのがこの図面。
 


思ったより細かく分かれていた!一区画ごとに登記簿が異なる


ひとくくりの土地に見えても、さまざまな所有者の手を経て寄せ集められた土地だとわかったが、一区画ごとに登記簿を確認して内田町の範囲を探すのは至難の作業。
すると! 右下に小さい枠を発見。
 


これは何を意味するのだろう?


法務局の人に聞いてみると「内田町は細長い形の町のようですね」と言う。内田町は横浜銀行本店を挟んで飛び地になっているわけではなく、ひと続きの帯状の土地だったのだ!
どうやらGoogleマップでは便宜上、横浜銀行本店のビルをよけて表示していただけのようだ。
 


つまり内田町の範囲はこういうこと(Googleマップより/青枠内)


確認のために横浜銀行本店の建物の登記簿謄本を取ってみた。すると所在地は「西区みなとみらい3丁目1番地」のほかに「中区内田町」「中区桜木町1丁目」と、間違いなく3つの町にまたがっていた。

なぜこんな変な縁取りのような形に残ってしまったのだろう? 



「桜木町1丁目」に食われていった「内田町」



地名の変遷にとても詳しい、横浜市民局窓口サービス課・住居表示係に電話でお話を伺った。

埋立てをした人名から付けられた「内田町」は、1889(明治22)年の市制制定時に横浜市に編入。その後、中区内田町になり、戦時下の西区新設の際には北寄りの6~8丁目が西区に、1~5丁目が中区となったという。
1966(昭和41)年に西区内田町(6~8丁目)は廃町の末、緑町に。その後、高島町に編入した。
 


地図上方が内田町6~8丁目。地図下方は桜木町駅
1964(昭和39)年横浜市三千分一地形図(横浜開港資料館資料より転載)


一方、中区に残った内田町1~5丁目はどこだったのか?
昭和初期の地図では、駅前は「内田町2丁目」と書かれているが、詳細は市民局でもわからないという。

みなとみらいが造船の町だった昭和の終わりまで、桜木町の貨物駅から港湾方向は重工業地帯だった。その入口一帯を占めていた内田町。今では「桜木町1丁目」という町名になって広いロータリーに変容した。
 


1981(昭和56)年、右下が桜木町駅。写真の中央一帯が「内田町2丁目」
(横浜市史資料室広報課写真資料)


ところが、「もともと線路の反対側の細長い小さな区画だった“桜木町1丁目”に、内田町がいつ食われていったのか、その経緯がわからないんです」と、市民局でも首をかしげる。市会の議事録にも市報にも住所変更の届け出がなされた記録がないのだと言う。