謎の多い内田町。なぜ桜木町やみなとみらいにしなかったのか?
ココがキニナル!
花咲町の記事で地図を見て気付いたのが極小面積の町、中区内田町。古地図を見ると元々は造船所一部のちゃんとした面積を持つ町だった。なぜ全部みなとみらいと桜木町にしてしまわず残したんでしょう?(kazさん)
はまれぽ調査結果!
桜木町1丁目が内田町を食うように広げられ、取り残された端の部分が現在の内田町。しかし、あえて残された理由は、資料として残っていなかった。
ライター:吉岡 まちこ
「桜木町1丁目」に食われていった「内田町」 (つづき)
もともと内田町だったところに桜木町がかぶさり、縁だけが残ってしまった内田町。
桜木町があとからかぶさり、縁だけが残った内田町のイメージ
いつ桜木町に塗り替えられたのか。1964(昭和39)年以降の地図を横浜中央図書館で順番に見ていった。すると、意外にもそれは平成に入ってからだということがわかった!
1985(昭和60)年地図。駅関係の建物のほかは内田町だった
(内田町を青枠で、桜木町一丁目を赤枠で囲っている)
版権があるため手描きにする。2ページにわたる地図をつなぎ合わせたところ、桜木町駅近辺で町界のラインが各ページで違っていた。町界があいまいだったのだろうか。
1989(平成元)年地図。造成が進むが、まだ内田町だった
1992(平成4)年地図。桜木町一丁目の名が現れる。地図外の左下辺りが桜木町駅
平成に入ってから4年までの間に、桜木町1丁目が内田町に取って代わったことがわかる。
“みなとみらい”という住所ができたのが1989(平成元)年なので、おそらくその頃に桜木町1丁目の町域も拡大されたのだろう。しかし資料はない。
縁が残ったのは、これはミスなのだろうか? それとも何か理由があるのだろうか・・・。
区画整理事業で、わざと残された!?
市に資料はなく、みなとみらい地区の造成と土地区画整理を行なった事業主は、UR都市機構(独立行政法人都市再生機構)であり、詳細はそこが知っていると情報を得た。
馬車道のアイランドタワーにあるUR都市機構を訪ねる
担当者は「区画整理事業は、土地の形状を変えながら地番をふり直すという事業です。住居表示とは単にあくまで郵便物が届くよう地名をわかりやすくするもので、市が行なうこと。自分たちに指示の権限はない」と言う。登記簿上の地番の変更を行なった2006(平成18)年以前に、住所はすでに変わっていたという。
つまり住居表示の変更は便宜的なもので、登記簿上の地番や地権とはまったく別のものなのだ。
なぜ内田町は細長く残ったのか?当時を知る前任者に経緯を確認してもらったが「事業としては当然きれいに西区みなとみらいか中区桜木町に収めるのが通常だが、市と法務局との協議で決めるもので詳細は不明。残す権限はこちらにはない」という回答だった。
みなとみらいに収めると区の境界が変更され煩雑になる。しかし桜木町1丁目にするなら問題はなかったのではないか?
再度横浜市民局・住居表示係に聞いてみた。回答は「町の境界はわかりやすくするのが基本であり、本来なら残すことはあり得ない。ただ既存の建物があった場合、なるべく影響が出ないように配慮することもある」というものだった。
ここにあった建物といえば、1988(昭和63)年に竣工した横浜銀行本店ビル。はまぎんホール部分はきっちりと内田町の範囲だ。現在はまぎんホールは横浜銀行から運営委託されているため、財団の所在地は横浜銀行本店という扱いになる。当時、何か書類上に内田町の住所を使っていた可能性があったのではないか…?
ところが横浜銀行本店広報は「古い話なので資料は残っていない」とのことだった。
ところで、線路部分に離れて存在している細長い内田町は、なぜ残ったのだろうか。
青色で囲った部分が内田町
内田町より桜木町駅寄りの線路は、桜木町駅と同じ“桜木町1丁目”だ。JR東日本によると「駅の住所は、駅長室がある場所。線路のどこまでがその駅の管轄構内なのか決められている」という。
桜木町駅の管轄にも入らず、みなとみらい21の事業範囲にも入らなかった細長い土地。UR都市機構にも「便宜上、手を付ける必要がなかった」と判断され、内田町の地名は残されたという。
みなとみらいの近くにまだあった土の感触。このあたりが内田町
内田町は、首都高のみなとみらい料金所の真下から向こう150ⅿ、泥道の左半分と線路部分だけだ。
取材を終えて
めくるめく変わるみなとみらいの流れに翻弄されてきた内田町。残ってしまった経緯はわかったが、なぜ残ったかは「古いことなので資料がなく」わからなかった。わずかといえばわずかな20数年前は、まだ紙の時代だったのだ。
住所変更された時期を横浜港郵便局に訪ねたが、現状の住居表示しかわからないという。その理由は「情報は更新されるもので、過去の履歴は残らない」。とても重たい言葉に感じた。
―終わり―
呑屋の狸さん
2016年06月26日 12時19分
時代の変化の中で、内田町界隈の建造物には、歴史を感じさせるような「建物の名前」が残っています。 例えば、桜木町から横浜方面に向かう途中で別れる貨物船が、下って地下に進む途中で、踏切を渡ります(桜木町6丁目交差点からみなとみらいへ抜ける歩行者通路との踏切)。この踏切の名前が「三菱ドック踏切」。また、横浜市営バス「高島町」停留所付近で、国道16号線からみなとみらい方面に抜けるガードは「根岸線(6)内田町第一ガード」。探せば、まだ何か出てくるかもしれません。
マッサンさん
2016年06月26日 11時09分
今となっては名残りなんでしょうか?今回の記事で「内田町」は日の目を見ました。よかった。
morizoさん
2015年09月07日 01時17分
初めてこのサイトに辿りつきました。というのは、私の高祖父がこの内田町で潜水業をやっていたという話を父から聞いていました。今は道路になってるよ、と父。もう亡くなって三年余り。その時の謄本やら資料やらで内田町を検索していたらここにいきついたのです。線路、三菱造船所、引込み線すべて話と同じでした。私も横浜に行って、調べたいと思っていたらもうさすがに資料はないんですね。祖母の話だと、戦後政府に安く没収されて廃業せざるをえなかったそうです。もちろん空襲にもあい、集めた美術品、刀など全部焼失してしまって、その後の生活は大変だったそうです。また楽しい記事をお願いします。