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大岡川の源流までってどうなってるの?

ココがキニナル!

横浜市内を流れる主な川の源流(水源地)を巡る旅、というのはいかがでしょうか。(吉閥さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

今回取り上げるのは、かつてより川の恩恵によって産業が発展してきた大岡川流域。源流のある円海山にたどり着くまでに数々の歴史的スポットを通過する。

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ライター:ナリタノゾミ

川を利用した人たち

上大岡川の流域では、川の恩恵によって、古くから産業が発達してきた。

昭和10年代、川沿いには染職業の工場が建ち並び、職人達が布を水洗いする姿が見られたという。
 


大岡川で染物を洗う人たち(再現イラスト:ナリタノゾミ)


横浜の染色工業は、1890(明治23)年、フランス商人がもたらしたといわれている。
染色後の洗浄に多量の水が要されることから、大岡川沿いは染色工業にとって好立地であった。
第一次世界大戦中、ヨーロッパへの輸出を伸ばし、震災や第二次世界大戦を乗り越え、戦後も南区、港南区を中心に、大いに栄えたという。

化学繊維の登場などにより、やがて衰退していくことになるが、大岡川沿いに「捺染工場」などと書かれたレトロな看板を下げた会社がいくつか見られるのは、隆盛を極めていた頃の名残だろう。
 


笹下4丁目あたり


また、開港から昭和30年代にかけて、港南区の川沿い一帯には用水路が発達し、農業地域が形成された。
特に、上大岡から市立日下小学校にかけての一帯では、チューリップやバラなどの西洋花が栽培されており、「花売り娘」と呼ばれる女性が、籠(かご)を背負ってリヤカーを引き、花を売りに行く姿が見られたという。その頃、現在の京急上大岡駅の付近には「港南花市場」と呼ばれる大きな市場があったそうだ。

なお、大岡川からやや離れた場所にある東福寺(笹下5丁目)の境内には、西洋花の栽培が行われていたことを記す「花塚」が建てられている。
 


いよいよ磯子区へ突入する


笹下釜利谷道路をさらに進み、「磯子区」の標識を過ぎると間もなく、川の分岐点が現れる(洋光台1丁目)。

このあたりには、小田原城・北条氏20将の一人、間宮豊前守信元が天文年間(1532~1555年)に笹下町一帯と洋光台の自然地形を利用して築城した城、「笹下城」があった。
 


川の分岐点。奥の右手に流れていくのが大岡川


「間宮」といえば、杉田玄白や間宮林蔵を輩出した一族だ。
磯子にゆかりの深い間宮氏は、川崎堀の内城主を継いでまもなく、笹下に移り、この地に居城を構えた。
 


自然の地形が利用された城


もっとも、十分な調査がなされぬまま、この地域一帯は住宅街として開発されてしまったため、笹下城の詳細は不明である。
 


打越から根岸線と交わるあたりまで




いよいよ、源流域のある円海山へ

さらに大岡川を追うと、川は氷取沢神社の境内を通過する。
 


氷取沢神社。鳥居をくぐると、社殿の手前を大岡川が流れる
 

もとの川筋は笹下釜利谷道路の方に延びていたというが、
道路の拡張にともない、現在の場所へと流れを変えた
 

氷取沢神社の狛犬


氷取沢神社の社殿は、もともとは、階段が100段以上もある山の山頂に建てられていた。このあたりの土には、砂や砂岩、貝殻が含まれていることから、大昔の海岸線がこの付近にあったことを物語っている。今でも境内の土の中には海の砂が混ざっているのだとか。

昭和30年代に、この砂を必要とする業者により、山が削り取られたため、社殿が山頂から現在の位置へと移った。
ちなみに、採取された砂は、栗木からの新道の道路敷や、根岸湾の埋め立てに使われたそうだ。
 


氷取沢神社の境内にあるツバキ


鎌倉時代、鎌倉と氷取沢を結ぶ道は、釜利谷から移ってきた武器生産職人たちの里であったため、産業の道として栄え、町屋が軒を並べてにぎわったという。
もっとも、鎌倉幕府の滅亡の際には、敵に追われた落ち武者たちが息絶えた場所となった。