南区の小学校裏で化石を発見? 海だったころの横浜を徹底調査!
ココがキニナル!
子供のころ、南区の永田小学校横にある竹林のむき出しの地層付近で貝の化石を採った覚えがあります。永田周辺は海だったと聞きましたが、本当でしょうか?(fukaさん)
はまれぽ調査結果!
はるか昔、8万年前以前、永田小学校付近を含む横浜市は海だった! かつて海の底であったことを示す地層も分布している。
ライター:大和田 敏子
専門家に聞く(つづき)
ここまでで、かつて横浜が海であったことがわかったが、いつまでが海の底に沈んでいたのかという疑問が残る。
当時の横浜がどのような状態だったのかを調べていくうちに『横浜の歴史(平成15年度・中学生用)横浜市教育委員会』という市内中学校で副読本として使用されていたもの(2009年度以降は『わかる横浜』に変更)から、横浜の地形の変遷について概略をつかむことができた。
それによると、約10万年前の関東平野は、現在より海が内陸へ大きく入り込んでいた。これを「古東京湾」と呼ぶが、それ以前の横浜は、そのほとんどが海底に沈み、わずかに南方に三浦半島がその頭をのぞかせるのみだったという。
第四紀の関東平野(下末吉時代=約10万年前『古代の日本(関東)』角川書店)
『横浜の歴史(平成15年度・中学生用) 横浜市教育委員会』より
この点を踏まえ、田口さんにうかがってみると、「横浜といっても広いので、その時期を知るためには、それぞれの場所ごとに地史(大地の歴史)を調べる必要がある」という。また、海の地層が複雑に重なるなど、単純にその年代を特定するのは難しいようだ。
海と陸の関係の変化をとらえるには、海面変動と陸の変動との両面を見ておく必要がある。海面は、およそ250万年前からはじまった氷期(氷河期)と間氷期(温暖期)を繰り返す変動の中で、この数十万年間には10万年周期で100メートル以上も海水準が変化する時代が続いている。
また、陸の変動という面では、横浜地域には「三浦層群」、「上総層群」、「相模層群」と大きく3つの地層がある。それらは一連の地層ではなく不整合で、その間に大きな変動があったという。
学芸員の田口さんは「大局的には、「相模層群(50万~8万年前)」の時代までは海であったと見ることができます。この視点に立てば、横浜はおよそ8万年前まで海だったといえるでしょう。もちろん、海に近い低地では数千年前にも海が入り込んでいた地域もありますし、逆に山あいでは数十万年前の海の地層が分布する地域もあります。海面変動や陸地の変動の末に現在の姿にあることをふまえながら、地質図片手に地域の地史を読み解いてみるのも一興でしょう」
と田口さんは、話してくださった。
取材を終えて
貝の化石をきっかけに、横浜の海岸線の変遷のみならず、大昔からの気候や陸地の変化など大きな動きを知ることができた。とはいえ、基本的には中学生が副教材として使用する『横浜の歴史』に書かれていることがほとんどであり、自分の知識のなさを実感させられた。専門家の観点から解説いただき、現地と同様の地層から産出した貝化石の写真を見る機会を得て、地質や古生物に関する興味が深まったことは、大きな収穫だったと思う。
―終わり―
参考文献
「横浜の歴史(平成15年度・中学生用)」 横浜市教育委員会
「南区の歴史」 南区の歴史発刊実行委員会
都筑のふくちゃんさん
2013年10月24日 11時37分
都筑区にも貝塚という地名・遺跡が残っています。縄文海進のときに、鶴見川の中流までは海だったのですね。