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大船が本気で「日本のハリウッド」を目指していたって本当!?

ココがキニナル!

日本のハリウッドを目指した大船を知りたい。田園都市開発され、鎌倉山に別荘地と巨大スタジオ+ビバリーヒルズはハリウッドにウリ二つ。松竹アパートや山椒洞も解体中です(katsuya30jpさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

1935年「東洋のハリウッド」を目指し田園都市開発された大船は1970年ごろ映画関係者でにぎわい撮影所は2000年に完全閉鎖。今は若干の遺構のみ

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ライター:ほしば あずみ

「東洋のハリウッド」をめざして



1935(昭和10)年、松竹株式会社は映画製作の拠点を、蒲田撮影所から大船撮影所へ移す。手狭になったことに加え周囲に工場や住宅が密集しはじめたことが理由だった。
白羽の矢が立ったのが、東京から1時間以内、海や山といった環境に恵まれ、9万坪という広大な空き地の多い「田園都市構想」が失敗したままになっていた大船。

松竹は移転前年に「松竹映画都市株式会社」を創立。撮影所敷地は3万坪を使用し、残りの土地を住宅地として分譲する計画を立てていた。

 

「松竹映畫都市株式會社分讓地附近圖(ふきんず)」1934(昭和9)年(所蔵:神奈川県立図書館)
 

地図の裏には「米国映画都市ハリウッドの現出を理想とし」と記されている


当時の新聞広告(横浜貿易新報1935年8月4日号)にも、「松竹キネマ撮影所は200万円の巨費を投じ(略)東洋一のステージを建設し(略)あたかも米国映画都市ハリウッドの繁栄と殷賑(いんしん)を期待いたします」と記載がある。文化的な田園都市「新鎌倉」とはまた趣を異にして、近代的な映画都市をつくりあげようとしていたさまが窺える。
 


開設当初の大船撮影所(『松竹百年史』より)


大船撮影所では、映画監督の小津安二郎が『東京物語』などの多くの映画を制作した。独特の調子は「小津調」「大船調」と呼ばれ、その系譜は山田洋二監督の代表作、寅さんで知られる「男はつらいよ」シリーズに受け継がれていく。
 


昭和30年代の大船撮影所(『松竹八十年史』より)
 

昭和30年代の大船撮影所・中庭(『松竹八十年史』より)


小津映画の名キャメラ番(撮影監督)として知られる厚田雄春(あつたゆうはる)さんの娘、菅野公子(かんのきみこ)さんに、在りし日の大船撮影所と大船の町について話を伺うことができた。
 


今も大船の町で「菅野写真館」を営む菅野さん


厚田氏は撮影のために東京から大船撮影所まで通っていたが、撮影所の近くには両親を住まわせていたという。
 


写真館に飾られている厚田氏の写真


厚田氏の写真が飾られているキャビネットには以前まで小津映画の撮影に使っていた、ローアングル用の三脚の実物も置かれていたが、現在は劣化を防ぐため鎌倉文学館に保管している。
 


独特のローアングルを撮影した三脚は、今は写真のみ


「撮影所が引っ越してきた1935年当初は、葦のような背の高い草が一面にぼうぼう生えていたといいます。その後住宅地として開発されていきましたが、戦後まもなくは店もさほどない状態だったそう。撮影所の前にあったのは、蕎麦屋の浅野屋(通称:ちびそば)と、でぶそば、あとはレストラン・ミカサくらい」
 


今は場所を移したが、創業当初は屋台だった「でぶそば」(はま旅「大船編」より)


ちなみに、「ちびそば」「でぶそば」の名づけ親は厚田氏だったそう。スタッフたちは毎食ほぼどちらかの店で食事をとり、その支払いはツケで月末に厚田氏が自腹で払っていたという。「監督によって違うかもしれないけど、父はそうしていたみたい」と菅野さん。
 


「ちびそば」と呼ばれていた浅野屋は今も松竹撮影所跡地近くで営業中
 

少し前に場所を変えてリニューアルオープンしたレストラン・ミカサ