豊かな自然に囲まれていた、かつての捜真女学校の様子を見てみたい
ココがキニナル!
神奈川区の捜真女学校は洋館風の木造校舎で雰囲気のある建物だったそう。周りは自然に囲まれ、ノウサギなど野生動物も見られたとか。当時の様子を知りたい(ねこぼくさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
現在の場所に移転した当時、丘の上にあるのは捜真女学校だけだった。周囲は雑木林や麦畑で、生徒たちはまだ舗装されていない道を歩いて通学していた
ライター:永田 ミナミ
中丸の丘の上へ
1910(明治43)年の移転は、1911(明治44)年に開通する横浜市電のための本牧隧道(=ずいどう、現在の第二山手隧道)を掘るにあたり、トンネル工事が捜真女学校の下を通るので、ほかの場所に移転してもらえないかという、横浜電気鉄道(横浜市電の前身)と都市計画を進める横浜市からの申し入れを受けてのことだった。
緑色の部分がトンネル。赤い部分あたりに捜真女学校があった
開校以来、順調に生徒数が増加し、100名に及ぶようになってきていたこと、またこのころは、大学部設置も視野に入れていたことから、よい機会だと考え、より広い校地を求めて移転したのが現在の神奈川区中丸である。
移転した当時、中丸の丘の周辺には神奈川宿に近いこともあって絹や石炭、茶などを扱う横浜商人たちの邸宅や、横浜ガーデンで有名な大沢邸などが建ちならんでいたが、丘の上に建つのは捜真女学校だけで、丘全体は麦畑や雑木林、薄(すすき)が生い茂る野原などに囲まれていたという。
捜真女学校を見降ろす航空写真。周囲には畑が広がっていることがわかる
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学校の正面玄関近くに置かれていた模型で、ほぼ同じアングルから眺めてみる
中丸の丘の上は神奈川区内では最も高い場所のひとつであり、まだ高い建物の少なかった当時、新しい学び舎となったニューイングランド風の木造校舎と十字架が立つ白い塔は、丘の周囲どこからでも、そしてかなり遠く離れた場所からでも見ることができたそうだ。
ちなみにニューイングランド様式とは、イギリスからの移民が発展させたアメリカでは最もスタンダードな建築様式であり、箱型の外観と急勾配の切妻(=きりづま、屋根の最頂部から地上に向かって二つの斜面が伸びた山形の屋根)屋根が特徴である。
捜真女学校全景(1937〈昭和12〉)年。校庭よりやや下がったあたりからの眺め
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このあたりから撮影された写真のようだ
2014(平成26)年に撮影場所付近から見上げてみるとこんな感じである
1937(昭和12)年の写真では、遠くからでも白い塔がよく見えていたことがわかる。捜真女学校のシンボルだったこの塔を近くから見上げると、このような感じだった。
写真に映る瀟洒な塔と門の意匠はとても趣がある。校門のアーチに書かれたブラックレターの「Soshin Jogakko」の文字もフォント好きにはたまらないだろう。
ブラックレターフォントで再現した「Soshin Jogakko」
ちなみに白い塔は、雑誌「少女の友」に1937〜38(昭和12〜13)年に連載され人気を呼んだ、横浜のミッションスクールを舞台とした川端康成の小説『乙女の港』(実際には中里恒子との合作)のなかで、掲載時に挿絵として写真が使われたというから、美しい塔として広く知られていたことがうかがえる。
理科の授業を受ける和服に庇髪(ひさしがみ)の生徒たち。庇髪は女学生の代名詞でもあった
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和装の女学生たちが西洋建築の校舎がならぶ校内を歩く風景は、この時代独特の、まさに昭和モダン的な風景といえるだろう。
左側が本館、中央奥が西洋館、木の向こうに見える右端の建物は寄宿舎
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模型で見ると写真は本館前で撮影し、赤い部分が写っていることがわかる
西洋建築がならぶ捜真女学校は、同時に、投稿にもあったように豊かな自然にかこまれた環境だったため、野鳥や野生動物はよく見られたと言う。
今はほとんど見かけないが、それでも野鳥の種類は比較的多く、ときどき校庭に狸が現れることもあるそうだ。
上の写真は、模型の写真でいうと画面右端下から少し外に出たあたりからのアングルだが、背の高い草が生い茂る野原になっていることがわかる。動物たちにとっても暮らしやすい環境だったにちがいない。
中島先生が捜真小学校を卒業された50年ほど前も、まだ学校のすぐ向こうに雑木林や茶畑などが広がっていて、豊かな自然は残っていたという。