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豊かな自然に囲まれていた、かつての捜真女学校の様子を見てみたい

ココがキニナル!

神奈川区の捜真女学校は洋館風の木造校舎で雰囲気のある建物だったそう。周りは自然に囲まれ、ノウサギなど野生動物も見られたとか。当時の様子を知りたい(ねこぼくさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

現在の場所に移転した当時、丘の上にあるのは捜真女学校だけだった。周囲は雑木林や麦畑で、生徒たちはまだ舗装されていない道を歩いて通学していた

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ライター:永田 ミナミ

百本の桜



中島先生の話のなかで興味深かったのは、大正時代に卒業生の1人から学校に100本の桜の木が贈られた、というエピソードであえる。

100本の桜はすべて学校敷地に植えられたというから、桜の季節には、丘の頂上にピンク色を帯びた白い雲がかかっているように見えたかもしれない。
 


全景の写真の桜の木がならんでいる場所をわかりやすくするため着色してみた
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桜の校庭。桜が咲く校庭を白い塔に向かって歩いていく生徒たち
〈クリックして拡大〉
 

関東大震災や戦争、そして長い年月を経た今も100本の桜のなかの数本が残っていて、毎年花を咲かせているということなので、お願いして案内していただいた。
 


新入生歓迎会の練習でにぎわうチャペルを通り抜けると、桜の木が見えた
 

階段を降りて近づいてみると、大正時代から立っているだけあって大きな木だ
 

昭和初期のこの写真でいうと、テニスコートのネットの上に見える桜だろう
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少しずつ咲き始めている桜は、ちょうど入学式のころには一面に花をつけて、新入生を迎えてくれそうだった。桜の木々は、どの教室からでも少なくとも1本は見えるようになっているという。大正時代から100年近く捜真女学校で過ごしてきた桜は、現在も1200人の生徒たちを見守っている。

また、山手にあった藤棚は、たまたま別の場所で養生していたために空襲を逃れ、今も中庭で花を咲かせている。



美しい校舎のその後



1910(明治43)年に完成した校舎は、木造でありながら1923(大正12)年の関東大震災にも耐え、美しいその姿を残していたが、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲によってわずか30分で全焼してしまう。

学校にあった写真もそのときにすべて焼けてなくなってしまったのだが、のちに卒業生たちからたくさんの写真が寄せられた。それらの写真は学校で大切に保管されており、現在はデジタル化もされている。今回提供していただいた写真もそうしたなかの一部である。
 


昭和初期の1枚。校庭の上に見えるのは本館校舎。桜は枝だけを広げている
〈クリックして拡大〉
 

校舎焼失から1ヶ月後には、現在も南区三春台に高校がある、同じバプテスト派の関東学院の建物を借りて授業を再開した。中丸に木造の校舎を再建して戻ってくるのは焼失から3年後の1948(昭和23)年のことだった。
 


廊下に飾られていた戦後最初の校舎の写真。周囲にはまだ空襲の傷跡が残る
〈クリックして拡大〉
 

その後、1956(昭和31)年に鉄筋コンクリートの本館校舎が完成し、続いて1962(昭和37)年にはチャペル、1967(昭和42)年には体育館がそれぞれ鉄筋コンクリートで建てられた。さらに1991(平成3)年に戦後3代目となる現在の本館校舎が完成するが、チャペルと体育館は今も1960年代当時の姿をとどめている。
 


現在のチャペル。鉄筋コンクリートでありながら木造のような趣もある
 



取材を終えて



最後に、当時の様子をあらわす素敵なエピソードをもうひとつ。

今でこそ舗装されていない道路を見るほうがめずらしいが、1964(昭和39)年横浜市発行の『調査季報』には、1963(昭和38)年でも日本の道路舗装率が3%(アメリカ37%、イギリス100%)、横浜市でみると7%(東京5%、大阪34%)とある。ここからもわかるように、かつて日本では舗装されている道路はごくわずかだった。

捜真女学校への通学路も、もちろん舗装されていなかったから、雨の日になると丘をのぼってくる生徒たちの足は泥だらけになってしまう。クララ・A・カンヴァース校長は、校門のところでその泥で汚れた足を1人ずつ洗ってあげたという。

「生徒と教師の距離が近く大きな家族のよう」という中島先生の話を象徴するエピソードであると同時に、最後の晩餐で弟子たちの足を洗ったイエスの姿とも重なるものがある。

現在、主な通学路になっている坂はしっかりと舗装され、生徒たちに「まるまる坂」という名で親しまれている。
 


学校に向かう途中で見かけたこの坂が「まるまる坂」だった
 

坂の途中から見上げてみると12°も期待できそうな急坂だった
 

急坂ドット」などという即物的な呼び方とはちがう優しい感性に触れ、今度急坂記事を書くことになったら導入することも検討する方向で検討してみようかな、などと考えながら、中島先生に教えていただいた急坂を通って帰途についた。
 


坂を降りるとかつて捜真女学校の最寄り駅だった
新太田町駅付近に出る
 


―終わり―

 
参考資料
『神奈川県教育要覧』神奈川県教務課(1918)
『横浜市史稿教育編』横浜市役所編 発行(1932)
『捜真と横浜[新版]』捜真女学校中学部・高等学部編 発行(2007)
『捜真女学校 学校案内 2014年度版』
『捜真女学校九十年史』曽根暁彦著 日野綾子監修捜真女学校発行(1977)
『調査季報 第2号』横浜市都市経営局制作課編 発行(1964)
 

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  • 偶然昨日ネットで母校の素晴らしい事を色々書いてたのです。かつて与謝野晶子があの白い塔の部屋を借りて句会を催した事も。そして今日ネット友からこんな記事がと紹介されて嬉しくなりました。半世紀以上前に卒業した捜真の ”娘”です。 その6年間に本物に触れ、良い事を沢山学べたのは今でも人生の宝となってますし、習った事は外国でも立派に通じ、自信へも繋がっています。大野一雄先生の創作舞踊、自己表現の踊でユニークなものでした。 日本画家の森田こうへい先生の美術の時間も好きでした。里帰りする度に捜真へ ”遊び”に行くのが定番で、主人と訪ねた時は日野先生が校長で快くお迎え下さり、校内を色々案内して下さったのです。主人も大変良い印象を持ちました。 その何年後かに、訪ねた時は校長が一級上の飯島さんで、又親しく迎えて下さったのです。今年から後輩の中島昭子さんが新しい校長に、いつかお訪ねするのが楽しみです。

  • 捜真の関係者、卒業生が書いたのかと思えるほどの記事でした。著名な卒業生にぜひ大村はまさんも入れてください。

  • まるまる坂…懐かしいです。小学校入学から高校まで捜真で学びました。先輩に中村うさぎさんや声優の坂本千夏さん、最近ドラマ化された「失恋ショコラティエ」の漫画家の水城せとなさん、後輩には準ミスが居たりと、様々ですが、当時教壇に立っていた先生は現校長・現教頭となり、月日の流れを感じずにはいられません。今回の記事は当時学校教育で習った過去のことですが、記憶もうろ覚えだったので、改めて深く知ることができました。

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