馬車道・山下公園・港の見える丘公園・・・横浜の名所の緑を守り続けて120年以上続く老舗企業、「横浜植木」について教えて!
ココがキニナル!
南区にある「横浜植木」さん。創業120年にしてロンドンにも支店があった近代園芸の嚆矢、というのを見てびっくりしました。歴史などの詳細が知りたい。(katsuya30jpさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
1890年の創業直後から次々と海外へ販路を拡大、業界の先達として近代園芸の発展と国際交流に貢献。現在は総合園芸会社として多岐にわたる事業を展開
ライター:菱沼 真理奈
百合根の輸出から徐々に販路を拡大
現在の事業について有吉社長から伺ったたころで、次は造園部の阿部耕三(あべ・こうぞう)さんと三橋果奈(みつはし・かな)さんに、創業からの歴史やエピソードなどをお聞きした。
入社38年目のベテラン、造園部部長の阿部耕三さん
入社2年目の期待の星、造園部の三橋果奈さん
1890(明治23)年2月、鈴木卯兵衛(すずきうへい)氏を代表者として、横浜植木の前身となる「有限責任横浜植木商会」が現在地に設立された。翌年、「株式会社横浜植木商会」に改名し、1893(明治26)年に現在の屋号「横浜植木株式会社」となる。
創業者の鈴木氏は千葉から横浜に出て植物栽培を学び、居留地の外国人宅に草木を供給する庭師として働いていた。
その後、居留アメリカ人が経営する横浜の植物輸出商社「ボーマー商会」へ入社。仕入れ主任として、日本産の百合根を輸出する海外市場(アメリカ・カナダ・ドイツ・イギリスなど)の開拓に携わった。
創業者・鈴木卯兵衛氏の像
当時、日本の百合根輸出事業は居留外国人が牛耳っており、莫大な利益を得ていたという。「日本の百合根は欧米で非常に人気が高く、当時貴重だった生糸より利益があったといいます。何と仕入れ値の100倍の値段で売れたそうですよ」と阿部さん。
ということは、1万円が100万円、10万円が1000万円、100万円が1億円に!? まさに万馬券に匹敵する驚きの利益率である。
そこに注目した鈴木氏はボーマー商会から温室を譲り受け、自ら百合根の温室栽培に着手。
同商会で栽培や貿易のノウハウを学んだ後、日本人の手で百合根を輸出すべく自社を立ち上げ、横浜植木の長い歴史が始まったのである。
こうして横浜で産声をあげた同社は、創立直後に開設したサンフランシスコ支店を皮切りに、ニューヨーク・ロンドン・ウラジオストック・北京・南京・上海・新京など、海外の主要都市に支店や事業所を開設。創業から約50年に渡り、近代園芸会社の草分けとしてグローバルに事業展開していく。
ニューヨーク事務所があった場所の現在(ブロードウェイ11番地)
創業当初は輸出業がメインで、百合根・牡丹・芍薬(しゃくやく)・花菖蒲・つつじ・椿などの植物のほか、石燈籠・庭石・農産種子・オリジナルの調味料「橙のポン酢」・風鈴・フグ提灯・海藻など、海外で求められる商品は何でも輸出していたという。
当時の百合根の選別作業の様子
商品見本となるカタログの絵は、社員として雇われた画家が手作業で描いていたそうだ。色鮮やかで表情豊かな花々の描写は、どこかレトロモダンな趣きが漂う。
1890(明治23)年の英文カタログ
当時の百合根のカタログ絵
その後1897(明治30)年ごろからは、洋蘭・洋種の水仙・バラ・チューリップ・ダリア・ヒヤシンスなど、西洋植物や熱帯植物の輸入も開始する。
同社が日本でいち早く輸入したチューリップは、当初なかなか栽培適地が見つからず苦戦したが、ようやく北陸で栽培に適した土地を見つけ、1923(大正12)年より本格的に生産販売をスタート。
一時はアメリカに最大670万球輸出するほどの勢いを見せたが、第2次世界大戦で貿易が止まるとオランダを中心に品種改良が進み、現在は逆輸入されているという。
また1898(明治31)年には、輸出用花菖蒲の栽培・品種改良を行う菖蒲園を磯子に開設。横浜三溪園にも同社が栽培した花菖蒲10万株が植えられたが、残念ながら潮風と海水の影響でほとんど消滅してしまったという苦労もあった。
磯子の菖蒲園
「ちなみに、横浜公園のスプリングフェアで咲き誇る16万球のチューリップは、20年ほど前から当社がご提供しているんですよ」と三橋さんは嬉しそうに微笑んだ。
当時のチューリップのカタログ絵
歴史文学作家・吉川英治と横浜植木の深い関係
ではここで、ちょっと興味深い文学的なエピソードをご紹介しよう。
戦前から戦後にかけて活躍した歴史文学作家として知られる吉川英治。その作品『忘れ残りの記』の中に、このような記述があるのをご存知だろうか。
「横浜植木会社は、当時の居留外人にとっては、最も印象の深い一名所ではなかっただろうか」「いつも倉庫の口から百合根を荷馬車に山と積み込んでいた」「あんな広大な花園を、ぼくは見たことがない」「下町の学校通いに(横浜植木の)裏門から表門を抜け、毎日そこを往復の近道としていた」等々、横浜植木にまつわる数多くの記述が残されている。
吉川英治『忘れ残りの記』(講談社・吉川英治歴史時代文庫)
吉川英治は幼少のころ、母親が横浜植木で働いていたことから、会社の敷地内にある家に住み、構内を遊び場にして育ったという。彼がここに住んでいた明治期から大正期にかけて、同社の敷地は現在よりもはるか広域に及び、構内には盆栽展示コーナーや茶室などもあったそうだ。
植木の盆栽展示コーナー
風情のある茶室前の日本庭園
阿部さんによると「吉川英治の植物観はこの時期に形成されたのではないか」とのこと。また、この著書からは、彼自身が当時の横浜植木に深い思い入れがあったこともうかがえるという。歴史文学の世界に息づく、何とも感慨深いエピソードである。
1902(明治35)年の『横浜名所図絵』に描かれた横浜植木