「さば神社」がやたら横浜にあるのはなぜなのか? 知られざる理由を徹底調査! 前編
ココがキニナル!
いずみ中央周辺にはサバ神社が多数あります。左馬神社や佐婆神社、鯖神社だったり、何か由来があると思うのですが調べてもらえませんか。(mocoさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
源義朝(みなもとのよしとも)・源満仲(みなもとのみつなか)の官職だった左馬頭(さまのかみ)から名付けられた神社12社中6社を回り後編へ続く
ライター:細野 誠治
横浜市泉区の5社を巡る/和泉川流域、源満仲の3社
宮本氏に教えていただいた、巴御前ゆかりの横根稲荷神社に参拝した足で12社を巡る。まずはこの地区で愛されている多田源氏、源満仲を祀った3社に行ってみよう。
最初は泉区の3社(源満仲)、同じく泉区にある源義朝を祀る2社から始めることにする。
泉区(1)鯖神社(鯖大明神)
最寄りは横浜市営地下鉄・下飯田駅または相鉄線・ゆめが丘駅で下車
駅から南へ歩いて25分ほど。環状4号線から少し入った場所にある。
泉区和泉町705、18号線沿い「密蔵院」の近く
辺りは新築の戸建て住宅が密集するエリア。少し分かりづらい
急な階段の先にある。境内はこぢんまりとしている
こちらが本殿
慶長年代に当地の郷士、清水・鈴木の両氏が勧請したという伝承がある。慶長年代は西暦にすると1596~1615年の間。軽く400年を越す歴史を持つ神社だということだ。
さて、ここの神社の“さば”は魚を表す“鯖”の字を冠している。
さば、鯖
馬匹の監督・管理を指す「左馬」が、当て字とはいえ「魚」になってしまった。どうしてだろう? 資料の読み込みや伝承を調べていると「かつて境川が氾濫を起こし、水が引いたら辺りの木々に鯖がたくさんかかっていたから」という記述あった。だから「鯖」神社。
だがこの説、ちょっと怪しくないか? 大水や野分(台風)がきて、海の魚の鯖が、川を遡上していったとは考えにくい。
鯖が川を遡上した?
さらに調べてみると、これは!? というものに出会った。
民俗学者の柳田國男氏(1875~1962)の考えだ。生前、柳田國男氏はこの「さば神社」に並々ならぬ興味を抱いていたという(著作のなかで“特異な神である”と記述をしている)。
氏の著作論文『鯖大師』の一節を引用する。
『私の大胆な当て推量といふのは次の如くである。いわく、海岸の住民が魚を捕って、これを内陸の農産物などと交易に行くのには、昔は境の神を祭り魚を供へる風があった。』
漁民たちが鯖を、境の神に供えていた。この辺に昔を偲ぶヒントがあるような気がする。
境川沿いを人々が往来し、鯖を供えた?
では筆者も先人に倣って(?)和泉川を遡ってみよう。次の神社も最寄りは地下鉄・下飯田駅または相鉄線・ゆめが丘駅。徒歩10分ほどに「中の宮左馬神社」はある。
泉区(2)中の宮左馬神社
泉区和泉町3253、「いずみ中央」駅と「ゆめが丘」駅の中間にある
森林と農地、宅地が点在するところ。静寂に包まれていた。
鳥居を潜ると広い境内
勧請は非常に古く、伝承によると「源氏隆盛のころ」という。(額面通りとするならば約800~900年も前ということになる)『新編相模風土記稿』には現在の名ではなく「鯖明神社」と記載がある。また鯖だ。社伝に由来書きがあるという。
「左馬と称していたが、鎌倉北条の世に偽って鯖とした」そうだ。なぜ鯖の字を選んだのかは謎のまま。そしていつ「左馬」に戻されたかも謎。
祭神は源満仲と、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀っているという。
現在の本殿は2004(平成16)年に新築された
もうひとつ社がある(境内社)
石塔や道祖神などが境内に多数ある
本殿を見下ろすかたちでシラカシの古木がそびえている
またこの神社は「相模七左馬(鯖)」の1社として数えられている。これは数ある“さば神社”のうちの7社を1日で詣ると疱瘡(ほうそう)、麻疹、百日咳などの悪病除けにご利益があると言われている風習であり、七(なな)さば巡り、七さば参りと呼ばれている。
「七さば」のひとつに列せられている
ほかに七さばに数えられるのは上和田、下和田、高倉、今田、下飯田、上飯田、綾瀬の7社。これで8社になってしまうが、原因は文献によって違いがあるため。さらに巡る順番も変わる。これは集落ごとに残る伝承によって、地元の氏神を起点することによって差異が起こっていると考えられる。
流域に残る伝承“七さば巡り”
その昔、悪病・流行病は魔の仕業とされていた。そんな魔を退ける力を持つものとして武神・軍神のような荒武者であった源義朝(源満仲)にすがったのだろう。
さらに和泉川を遡る。源満仲を祀った最後の1社は相鉄いずみ野線「いずみ中央」駅が最寄りの「佐婆神社」。駅から徒歩で線路沿いを15分くらい。
泉区(3)佐婆神社(へっついさま)
泉区和泉町4811、相鉄いずみ野線沿いに寄り添うようにある
鳥居の向こう側、こんもりとした丘がある
表記は「佐婆」
境内の様子。相鉄の線路が見える
伝承では寛文年中(1661~1673年)に、伊予(現在の愛媛県)の豪族であった河野氏の末裔である石川治右衛門が創祀したのが始まりとされている。およそ350年前。
一方、地域の伝承をまとめた「和泉往来」には「慶長年中の勧請」という記述もある。もし慶長年中なら約400年前(<1>の鯖大明神の勧請年と近いと思われる)。
境内には樹齢380年のタブノキの老木がある
とてつもなく大きい木で、畏怖の念が湧く
この佐婆神社には「へっついさま」という異名がある。「へっつい」とは竃(かまど)のこと。かつて境内を取り囲むように、土塁に覆われていたという。
台所にある竃、そんな竃には火を司る神がいる。そして名に女性を指す「婆」の文字。理由は分からない。でも何か、訴えかけてくるものがある。
源満仲、竃、婆というワード。富士山の祭神「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る