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戦後70年。戦争の悲惨さを振り返る。元特攻隊員、手塚久四さんが語る特攻隊の真実とは?

ココがキニナル!

横浜に住む元特攻隊員、手塚久四さんに特攻隊の真実を聞く

はまれぽ調査結果!

特攻隊は生還する可能性0%の攻撃部隊。彼らは軍神ではなく、普通の若者だった。現代の私たちは特攻の真実を知ることが大切である。

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ライター:松崎 辰彦

ゼロ戦との出会い



飛行機の練習は自動車教習所と同じで、教官が同乗して教えた。教官に手を添えられながら、手塚さんも飛行機の操縦を覚えていく。

新米操縦士たちは言われた。
「貴様ら、娑婆では“失敗は成功の母”なんて言われているが、飛行機に乗ったらそんなことは通用しないんだ。“最初の失敗”は“最後の失敗”だ!」
 


飛行中に失敗は許されない(フリー画像より)


生れつき頭脳明晰で運動神経も優れていた手塚さんは、一度も事故めいたことも起こさず、優秀な操縦士になることが期待された。そして任命されたのが戦闘機のパイロット。

「戦闘機のパイロットは操縦・戦闘・航法・電信とすべて一人でやらないといけないから、優秀な者が選ばれるんです」
手塚さんは笑うが、そんな彼に与えられたのが──
ゼロ戦。正式名称「零式(れいしき)艦上戦闘機」。日本海軍の伝説的名戦闘機である。
 


ゼロ戦。伝説の戦闘機(フリー画像より)


「ゼロ戦は練習機とは全然違う、どっしりとした鉄の塊でした」
ゼロ戦はすごいですよ、と手塚さんは強調する。
「垂直旋回の半径が小さくて、グラマン(アメリカ軍の戦闘機)でも追いつけません。旋回するとその半径が敵の戦闘機より小さいですから、クルッと廻って相手の後ろについて機関砲を放つんです」
ゼロ戦でいかに闘うかも、教官から教わった。

「それからゼロ戦に乗って見た虹はきれいだったですね」
空から見る虹は格別の美しさだったという。あれはゼロ戦乗りの特権ですね、と言って懐かしむ。



〈熱望〉〈希望〉〈否〉──命の選択



手塚さんが少尉に任官したのは1944(昭和19)年12月25日。翌年の1945(昭和20)2月20日に、彼は「特攻隊員」に選ばれた。
 


戦闘機パイロットになった手塚さん


「その日、ボクたちは講堂に集められ、当時の少佐から『現下の戦局が厳しい状況にあるので特攻を以て局面の大転換をはかることとした』という戦局訓示がありました。そして特攻の『希望調査』と『身上書』の2枚の用紙が配られました」

「希望調査には自分が特攻隊員になることに〈熱望〉〈希望〉〈否〉の3つが書かれてありました。どれかにマルをつけろというわけです。ボクはとても〈熱望〉は選べない。しかし、〈否〉なんて選べる空気ではない。かといって〈希望〉の“希”は希(こいねが)うという意味であり、ボクはそうまでして望まない。結局〈希望〉の2文字を線で消して、ただ『望む』と書きました」

ささやかな抵抗であった。しかし、その場における最大限の自己主張であった。
 


手塚さんが所属した「霞空(かすくう)戦闘機特攻隊」
 

「これがボクです」


これには後日談がある。
「戦後分かったことですが、〈否〉をマルで囲んで提出した早稲田の男がいたそうです。彼は翌日分隊長に呼ばれ大“修正”ですよ(苦笑)。しかし、彼は本当に特攻隊には選ばれませんでした」
〈否〉を選んで提出しただけのことはあったのか。
 


隊の名簿
 

手塚さんの名前もある


「それから5日間の休暇をもらって家に帰りましたが、特攻隊に選ばれたことはどうしても言えませんでした。でも、両親は分かっていたみたいです」
特攻隊員となった手塚さんは、北海道の海軍航空隊へと向かった。日本は戦争で、いよいよ追い詰められていた。



本番さながらの特攻訓練



特攻隊員となった手塚さんには、新たな訓練が課せられた。
「上空3000~4000メートルから急降下して、まっさかさまの角度で敵の艦船に見立てた木の枠に突っ込むんです」
地上400メートルになると操縦桿をグっと引き上げ機首を引き起し、上昇する。本番さながらの特攻訓練である。

「地上400メートルで衝突を回避するわけですが、計器が400メートルを指してからでは遅いんです。慣れてくると計器は見ません。急降下時は時速500kmにもなり、お尻が浮いています。地上400メートルで機首を引き上げても、慣性の法則でさらに沈むんです」
 


 

 

ゼロ戦の性能を説明する手塚さん。話に熱がこもる


ある日、事故が起きた。急降下訓練中のゼロ戦が地面に激突し、パイロットと民間人が犠牲となった。

「訓練5日目でした。東大生の杉村裕(ゆたか)君の飛行機が、急降下したまま上昇してこない。みんな『事故だ!』と大騒ぎになり、駆け寄っていくと、農業倉庫の2階が刃物で切ったようになぎ倒されていました。金属片が50メートルから100メートルの範囲で散らばっていて、捜したらエンジンのそばに彼の肉体がありました。この事故で、彼のほかに民間人の男性と女性、そして子ども1人が巻き添えで犠牲となりました」
 


特攻訓練5日目に殉職した杉村裕さん。享年22


やがて自分も特攻で死を迎えなければならない。
それを思うと怖くなかったのですか? と伺うと「死については、訓練中は忘れちゃうんです。大きな北海道の夏、積乱雲をピューっと突き抜けると、戦争の訓練をやっているなんて忘れて、爽快感ですね」

特攻隊員になった手塚さんは待遇がよくなり、体罰どころか従兵が食事や洗濯の世話をしてくれるようになった。



出撃命令、そして終戦



そして8月13日、ついに手塚さんに出撃命令が下った。
「『四国の観音寺空港へ行け。そこに爆装(爆弾を搭載)したゼロ戦が用意されている』という命令でした。ボクは(ついにおれも死ぬことになったか。ここまできたからにはジタバタしないで死んでやろう)と思いました」
 


ついに特攻の命令が下った


手塚さんは飛行機で送ってくれるものと思っていたが、命令は「陸路で行け」だった。
「これが運命の別れ道でした。もし飛行機だったらその日のうちに先方に着いて、ボクは特攻で死んでいたかもしれません」

鉄道で移動中、仙台の駅で「明日、玉音(ぎょくおん)放送があります」と駅長に言われて、15日に街頭ラジオで天皇の玉音放送を聴いたが、何をいっているか分からない。駅長に確認したところ「戦争が終わった」ということが分かった。

「青天の霹靂でした。死ぬために来ているのに・・・頭が真っ白になりました」
ということは死ななくてもいいわけだ──ボーっとした頭で考えたという。
 


「頭が真っ白になりました」


このとき、彼には10人の部下が同行していて、彼らも特攻の任務を背負っていた。指揮官だった彼はいつまでも放心状態でいるわけにもいかず、次の行動を考えねばならなかった。それで茨城県の谷田部にあった原隊に部下を連れて戻ると「ご苦労であった」というねぎらいの言葉がかけられた。殴られるかと思っていた手塚さんはホッとした。