横浜が生んだマルチタレント、石井正則さんを徹底解剖!
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横浜が生んだマルチタレント、石井正則さんを徹底解剖!
ライター:永田 ミナミ
芸人の道を歩きはじめる
―芸人として活動するようになるまでの経緯を教えてください。
ある日、ホリプロの勉強会があるっていう広告を見つけて「とにかく何か動かないと」と思って、友達を誘ってコンビで参加したんです。
そうしたら、当然参加してる人たちは本気で芸人を志している人たちじゃないですか。それで、一緒に来た友達は「俺、ついていけないわ」って言って辞めてしまったんですね。
無理に引き止めるのも悪いし、僕はやりたかったので結果的にピンになったんです
そのころ、ホリプロの新人ライブというのが定期的にあって、毎回そのライブに出場するためにオーディションというか、ネタ見せがあったんですよ。そうすると、やっぱり毎回出演できる人たちと、何回やっても出演できない人っていうのが出て来るんです。
出られない人はだんだん辞めて減っていって、半年ぐらいたつと、ほぼ毎回ライブに出ているような人しか残っていなかったんですけど、僕は1回もライブに出てないのにずっといるんですよ。
何だ、あいつ、ライブに出てないのにずっといるぞって感じでした(笑)
そのころ、相方になる石塚君(石塚義之さん)は別のコンビを組んでいて、ライブにも出て結構受けてたんですけど、そのコンビが解散してしまったんですね。
それで、それぞれピンでネタ見せをしていたんですけど、ネタ見せの担当の人から「ピンのネタを2本見るのも時間がもったいないから、2人でコンビのネタ作ってきてよ」って言われて1週間でコンビのネタを3本作らなきゃいけなくなったんですよ。それで、星川のデニーズでネタを作って見せたらなかなかいい、ということになってライブに出られることになったんです。
―アリtoキリギリスの誕生ですね。
いや、それが、その担当の人が「まあ、間に合わせで組んだコンビだから、コンビ名も『まにあわせ』でいいだろ」って言って、最初のライブは「まにあわせ」で出たんですよ。
それが「まにあわせ」の最初で最後のライブでした(笑)
そのころの僕らは、石塚君の前の相方がネタも考えないでコンビ名ばかり考えてるタイプだったこともあって、コンビ名にこだわるのは格好悪いって思ってたんですね。
だから「まにあわせ」でも何でもいいって思ってたんですけど、その「まにあわせ」の名付け親の人に「来月の新人だけのライブに出られることになったから、それまでにコンビ名を考えてこい」言われたんです。
困ったなと思いつつ、とにかくネタを書かなきゃいけないので、うちと星川のデニーズでずっとネタを考えてたんですけど、気がついたら「ああ、もう明日までにコンビ名も決めなきゃいけないんだった」ということになって。
それで、とにかく僕の部屋にあるもので目についたものを片っ端からメモして「とりあえず候補は考えてきました」って持っていったんです。
その候補のなかに、太宰治の『きりぎりす』が入ってたんですね
それを見たその人が「お、『きりぎりす』か。小さいのと痩せてるののコンビなんだから『アリとキリギリス』でいいんじゃないか」ってことで、決まった感じですね。
さらに当時、事務所の先輩に「フォークダンスde成子坂」さんがいたので「君たちも間の『と』をアルファベット表記にしろ」と言われて「アリtoキリギリス」になったわけです。
―「アリキリ」の原点は太宰だったんですね。長年、心の奥にそこはかとなくあった疑問が晴れました。
芸人、そして俳優へ
―芸人として歩きはじめたころはどんな生活だったんですか?
もちろん芸人だけでは食べられないのでゲームセンターのアルバイトは続けてました。それ以外は、石塚君は千葉県で、そのころうちの実家は西横浜に移っていたので、事務所がある目黒にどっちかというと近いうちで、とにかくネタをひたすら作ってライブに出るっていう日々でした。
がむしゃらに何かに打ち込む若き日というのは靴下でもスリッパでもとにかく美しい
そのころ、とにかく星川のデニーズにはお世話になってたんですけど、まあ何時間も居座ってると、やっぱり注意されるじゃないですか。僕らも勉強してると思われて注意されて、その日は「すみません」って言って帰って、でもあのへんはほかに行くところがないんですよね。
だから、結局やっぱり星川のデニーズに行くんですよ
それで、僕がたとえばコーヒーを頼んで、それが飲み終わってしばらくしたら、石塚君がケーキを頼んで、それがなくなったら今度は僕がアイスクリームを、っていうふうにちょっとずつ頼むんです。
―そうすれば常に飲食してますもんね。
そうなんです。まあ、そうやってネタ作ってたら、そのうち「あ、こいつらは勉強してるんじゃないんだな」って理解してくれたんです。そうしたら、デニーズの店長は僕らが「そういうことなら応援する」って言ってくれたんですよ。
最初にギャラをもらったのもその店長だったんですよ。ひと晩かけてショートコントを何本か作らなきゃいけなくて、朝までやったときに、ミニチョコレートサンデーをご馳走してくれたんです。あの店長には本当にお世話になりました。
俳優の道へ
―それがやがて『ボキャブラ天国』でのブレークへと繋がっていくんですね。
あの番組では、主演している芸人のなかでは僕らが最も若手だったんです。あるときに出演者を若手にも広げようということになって、それで僕らも出演できることになったんですよね。何も分からないまま現場に行って、僕の話し方を見たヒロミさんが「スーツを着たサラリーマンキャラにするといいよ」って言ってくださって、次までに急いでスーツを用意して出演してっていう感じでした。
『ボキャブラ』では先輩芸人のみなさんからたくさん刺激を受けました
―その後、俳優業へと仕事の幅を広げていきますよね。
『ボキャブラ』にパネラーとして出演されていた三谷幸喜さんが、僕のそのサラリーマンキャラを気に入ってくれていて『古畑任三郎』のときに声をかけてくださったんです。
―役者をやってみたいという気持ちはあったんですか?
当時は毎日、とにかくいただいた仕事をしっかりやろうと思っていただけでした。「三谷作品」、しかも大人気だった『警部補 古畑任三郎』の続編に声をかけてもらったのに、あまりの話にわけが分からなくて、どれだけ大変なことが起こっているのか理解できていなかったですね。
ただ「俳優はちょっと」とかそういうのは全然なかったです。ひとつにこだわるのではなく、新しい物事をどんどん受け入れていくというのが楽しくもありました。
―そのころも横浜から仕事場に通っていたんですか?
そのときはもう、東京にいましたね。嬉しいことにボキャブラのころは大学などの学園祭にいろいろと呼んでもらえて少しまとまったお金が入ったのと、あとそれだけでは足りなかったので弟にも借金をして、先輩に勧められた西小山に引っ越しました。
横浜を離れたのは、24歳か25歳のときですね
―東京に移って、変わったことはありましたか?
僕の生活が変わったということよりも、外から横浜を眺めることになって、ようやく「横浜」について考えるようになった感じがしました。子どものころは西谷にいて横浜は遠かったし、高校を出たあとは伊勢佐木町で働いてましたけど、そこも自分が暮らしている世界の内側だったので、客観的に見る視点がなかったんですね。
ああ、自分は横浜で生まれ育ったんだなとはじめて思えました
現在の自分と横浜
―今、石井さんはミニベロでの横浜散策もよくされているんですよね。
そうですね。16~17年前に、ふと「自転車に乗りたいな」と思っていろいろ探していて「これだな」と思ったのがミニベロだったんですけど、買う前に試乗したいなと思ったんです。
当時自転車に試乗させてくれる店があまりなくて、見つけた店が鶴見の「Green Cycle Station」だったんです。それで店長の鈴木さんといろいろ話していたら仲良くなって、川崎でアンティークショップをやっている僕の知人を紹介したんですね。
そうしたら3人で意気投合して、それから2人に横浜のいろいろなお店に連れていってもらいながら、横浜を取り戻している感じです。
かれこれ20年近く、取り戻し続けていることになりますね(笑)
―石井さんのお気に入りの店はどのあたりですか?
僕は純喫茶が好きで全国をめぐっているんですけど、お酒を飲むのも趣のある店がいいですね。野毛にもよく行きますけど、僕は市民酒場が大好きです。常盤木も諸星も、生麦の大番も最高ですよね。常盤木には母を連れていったこともあります(笑)
―先日の京急サイクルトレインのときにも少し伺いましたけど、全国では約1800店と、石井さんの純喫巡りはもはや趣味の領域を超えてますよね。
自転車もそうですけど、自分が好きなものにはどうしても入り込んでしまって
―石井さんが訪れたなかで、ここはという横浜の喫茶店はありますか?
そうですね、いろいろありますけど、例えば天王町の「スリーティー」「コロボックル」、馬車道の「十番館」「かをり」、東神奈川の「アップ」もいいですね。横浜橋の「松本コーヒー」はずっと行きたいと思ってるんですけどまだ行けてなくて。昨日は中華街の「エル」に行きました。あ、代官山の名店「猿楽珈琲」が2015(平成27)年に弘明寺に移転したというのは、嬉しいニュースでしたね。
やっぱり発祥の地だからか、横浜の喫茶店のナポリタンはレベルが高いんですよ
あと、王道になっちゃいますけど関内の「大学院」は好きですね。あそこの店員はみなさん、きちっとした服装をしてらっしゃるじゃないですか。あれ、すべて自前の服装なんですって。
「大学院」のフルーツサンドはとても美味しいんですよ。フルーツサンドって素材の新鮮さが直接出るから、お店全体の姿勢みたいなものも現れると思うんですよね。
もともとは、ある喫茶店のショーウィンドウで「プリンコンサート」っていうのを見つけて気になりつつ、その日はお店に入るのを躊躇して、後日行ってみたらもう閉店してたんです。
それで「喫茶店は閉店していってしまうんだな」と気付き、それからは喫茶店との出会いは一期一会だと思って、気になった店には、時間がなくても必ず入ることにしてるんです。
そうしたら、何年かたって、新丸子の「まりも」という喫茶店で「バナナコンサート」っていうメニューを見つけたんですよ。なんか嬉しくなっちゃって涙が止まらなくなって「全米が泣いた」みたいになりました(笑)
その後、バナナコンサートはメニューから引退したので間に合ってよかったです
―最後に、石井さんにとって横浜はどんな街ですか?
横浜って、新しいものを取り入れていく柔軟さに富む街だと思うんですよね。馬車道や山下公園があって、野毛や中華街、伊勢佐木町、そしてみなとみらいもあって、あらがわない気質というか、もちろん何でもかんでも取り入れているわけではなくて、常にうまく自らを更新していく街というイメージがあります。
僕が横浜で生まれ育ったからそれを受け継いでいるのかどうかは分からないですが、役者やナレーションの仕事をいただいたときに、躊躇せずに新しい方向に進んでみようと思えるのは、横浜に似ているかなと思うと、少し嬉しいですね。
―たしかに、横浜の魅力というのは街そのものに現れているのは結果で、その街をつくった気質とか嗅覚にあるのかもしれないですね。今日はたくさん楽しい話を聞かせていただき、ありがとうございました。
とインタビューは終わったのだが(サインありがとうございます)
そのあと石井さんの伊勢佐木町でのアルバイト時代の話で大盛り上がり
まったく記事に書けない話なのが残念である
だがそれだけに抱腹絶倒、とても面白かったのだった
石井さん、本日はありがとうございました
―終わり―
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ヌッキーさん
2016年12月20日 12時54分
菅田小(神奈川区)ではなく上菅田小(保土ヶ谷区)の書き間違いじゃないかな?
マッサンさん
2016年12月09日 14時15分
今ふと思ってコメントしました。「アリとキリギリス」はどっちが石井正則さんでしたか。アリでしたっけ?キリギリスでしたっけ?
MXILEさん
2016年11月30日 23時40分
いやーはまれぽさん、遂に石井さんの取材どうもです!笹山団地って…めっちゃ近所やなぁ〜。次はジョーダンズの山崎さんの取材もよろしくお願いします!次回作も期待してます!