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元横浜ベイスターズ選手のセカンドキャリアとは?-下窪陽介さん-

元横浜ベイスターズ選手のセカンドキャリアとは?-下窪陽介さん-

ココがキニナル!

元横浜ベイスターズ選手、下窪陽介さんのセカンドキャリアとは?(はまれぽ編集部のキニナル)

はまれぽ調査結果!

2010(平成22)年に退団後、鹿児島県南九州市頴娃(えい)町の実家が営む「下窪勲製茶」のPR・販売員として全国の催事場を巡り明るく接客をしている

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ライター:山口 愛愛

代打ホームランでブレイクしプロの道へ



特待生として日本大学に進学するも剥離骨折の影響でボールが投げられず、「リハビリに行くふりをして渋谷をフラフラして時間をつぶしていました。完全に腐って野球を辞めようと思った」という。しかし、後輩に勧められたプロスポーツ選手も数多く通う小守スポーツマッサージ療院に通うとだんだん肩が上がるようになり、さらに指示されたインナーマッスルトレーニングを取り入れるとみるみる回復した。

数ヶ月で球速145km以上投げられるようになり、プロ野球への意識が高まっていく。3年生になると監督が替わり、チームの方針で強制的に外野にコンバートされたが、打撃も盗塁もレベルアップし、プロ野球のスカウトからも一目置かれる存在となった。

大学卒業後は日本通運の硬式野球部に入りプロ野球を目指す。
その後のブレイクのきっかけも驚くようなエピソードだ。

5月に西武ドームで行われた関東リーグでの朝日生命戦。控えの下窪さんはアップシューズのままバット引き(打者のバットをベンチに片付ける役)をしていた。試合半ばの攻撃で2アウト満塁、4番打者を迎えたチャンス。バッターがデッドボールを受けて骨折し、さらにスイングしていたので、判定は「ボール」。フルカウントから代打を出さなければいけない緊急事態に陥った。左投手だったため、コーチが右打者の代打を探し、声をかける。

「下窪、いくぞ!」「え、スパイク履いてません」「すぐに履いてこい、バカヤロウ! 思い切り振ってこい」のやり取りがあり、急きょ打席に立つ。思い切り振り抜いた当たりはなんと満塁ホームラン! この一発がきっかけで試合に使われるようになったという。

 

相性の良い西武ドームではホームランが多かった(I, DX Broadrec [
GFDL,CC-BY-SA-3.0 または CC BY-SA 2.5], ウィキメディア・コモンズより)
 

チームは社会人野球の頂点を争う都市対抗野球大会に毎年出場。下窪さんはプロ野球スカウトから注目される逸材だったが、毎年、試合中の接触プレーなどで肉離れや2度の骨折とケガに泣かされ、ドラフト候補になりながらも見送られてきた。

「これでダメだったら実家に帰ろう」と覚悟した6年目。初心に返り、試合の日も毎日30分走り込むなど下半身をいじめ抜いた。この年、都市対抗野球で首位打者を獲得。そのバッティングセンスを見抜いたのは当時の中日ドラゴンズ、落合博満(おちあい・ひろみつ)監督だった。
中日が下窪さんを獲得することが内定したと、確かな情報が下窪さんの耳に入った。

待ち望んだ2006(平成18)年のドラフト会議当日。
「中日が自分を獲ることが分かっていたんで、横になっていたんですよ。ドラフトが終わって、一応チームの担当者にどこですか? と聞いてみたら、『横浜だよ』って言われて、え? みたいな(笑)。情報が洩れていて、中日より先の順位で横浜が獲ったんですね。この話も知られていないことなんで(笑)」とまた知られざるエピソードを大判振る舞いしてくれた。

 

入団時から今も下窪さんを応援しているファンと談笑する場面も
 

こうして下窪さんは、ドラフト5位で横浜ベイスターズに入団し、27才にしてプロ野球の世界に踏み入れる。初ヒットは、ルーキーイヤーの4月29日。「ピッチャーは中日の中田賢一(なかた・けんいち)。フルカウントから、ボール球のカーブを打ってライト前です。(相手キャッチャーの)谷繁元信(たにしげ・もとのぶ)さん、何やってるんですか? って感じですよ(笑)」と、当時の場面がすらすらと出てくる。

「オープン戦から結果を残していたので、こんなものか、いけるなと思っちゃったんですよ。甲子園のときと同じでそれがいけなかったんでしょうね」と反省も口にする。

印象に残っている試合は、2007(平成19)年6月6日福岡ドームでの「ソフトバンク戦での決勝打」。9回表の満塁のチャンスに代打で登場。柳瀬明宏(やなせ・あきひろ)投手から右中間へ決勝3点タイムリーを放った。
「ノー(ストライク)ツー(ボール)から高めにきたボールを空振りして、ベンチを見たらコーチに舌打ちみたいなのをやられて。良いピッチャーのときに俺に代打いかすからだろうって思って(笑)。次のアウトローをガーンと打ちました」。

何よりも嬉しかったのは、練習中に福岡のファンから「鹿実だろう、出たらがんばれよ」と声を掛けてもらえ、決勝打を放った翌日も「おめでとう」と言ってもらえたことだ。

 

とくに九州では高校時代から下窪さんを応援するファンが多かった(作者 わたらせみずほ [
CC BY-SA 3.0], ウィキメディア・コモンズより)
 

ベイスターズでの思い出を振り返ると、勉強になったことが多いという。
「あんなにホームランを打つ村田修一(むらた・しゅういち)がいて、首位打者の内川聖一(うちかわ・せいいち)もいた。佐伯貴弘(さえき・たかひろ)さんは道具を大事にし、野球に対してすごく熱い方でした。憧れていた金城龍彦(きんじょう・たつひこ)さんとチームメイトになれて、こんなにすごい方も実は繊細なんだとか、みんな努力しているんだなぁと、見えない部分が見えて学べました」。

ただ、楽しい思い出ばかりではない。当時の心境を包み隠さず語ってくれた。「正直、打撃理論が僕には合わなかったですね。僕はバットを内側(身体に近い方)から出したいんですけど、監督やコーチは上から叩きなさいと。内から出す人が上からは叩けないんですよ。それで外角打てますか? と疑問を持ちながらやっていて。でもそれをやらないと使ってもらえない」と葛藤していたのだった。

 

首位打者を獲得したこともある金城選手に憧れてプロを目指していた(写真は2013年取材時)
 

1年目は72試合に出場し、112打数31安打で打率2割7分7厘の成績を残し、2年目の活躍を期待されたが、翌年はまさかの2軍スタートだった。「なんで?」という思いがつきまとう。
「1年目に1軍である程度やれたし、2軍の試合や2軍対1軍の試合でも結果を出せたんですけどね。そのころはまだ出してもらえればやれる自信があったので、なんで使ってもらえないんだ? という疑問と戦っていました」と打明ける。

チームは万年最下位の苦しい状況で、若手優先に方針が変更した時期もあり、中堅、ベテラン選手には不遇の時代であったかもしれない。「でも、いつ上に呼ばれるか分からないと思い、基本のランニングもずっとやっていました」と気持ちは切らさなかった。

しかし2010(平成22)年に、その日を迎える。
「最終戦の後に上層部から自主トレや来年の話をしてきたので、自分は当然残るものだと思うじゃないですか。その翌日に電話がかかってきて、話があるからスーツで事務所に来てと」。チーム内にはシーズン終盤に、来季は構想外というようなニュアンスを聞いていた選手もいたが、状況や方針が一転しその選手は残り、下窪さんは突然、戦力外と言い渡された。

この年は中堅の野手が一気に解雇された。「ベテラン選手もあっさり、ばっさり」という口調は寂しげだ。トライアウトを受けたがオファーはなく、潔く引退の道を選んだ。

もうわだかまりはないが、心残りはあるという。「僕、上(1軍)ではホームランを打ってないんですよ。1本打ちたかったなと、やり残したことはそれですね」。

 

ハマスタで1本打ちたかった・・・