環状3号線「日之出橋交差点」の名前の由来は? 戸塚区の失われた「橋」の行方を調査!
ココがキニナル!
戸塚区戸塚町環状3号線「日之出橋」という交差点がありますが、橋もないし、近くに川もない。むかーし昔には川があって橋があったの?気になる!(itopan99さん)
はまれぽ調査結果!
地元の方へのインタビューと資料の調査で、かつてあった「橋」位置が判明! その由来は今も残されている・・・?
ライター:はまれぽ編集部
記録を遡り橋の位置を探す
水路がいつなくなったのかについては、はっきりとした記憶を持った人はいないようだった。現在進行形で姿を消していることもあり、少しずつ埋め立てられたり暗渠になっていったりしたのかもしれない。一方で、そこに掛かっていた橋については、「今の交差点とは少し違う位置にあった」と記憶している人が何人かいた。
1880年代に作られた「明治迅速地図」では、その姿をはっきり確認できる。
丸印が「日之出橋」と思しき橋。まだ「日之出橋交差点」は存在しない
この地図を見れば、現在の交差点に橋の形跡が残っていない理由がなんとなく分かる。そもそも、交差点を形成する南北の市道(現在の戸塚大船線)が、この時点では引かれていないのだ。
みどりの線が戸塚大船線のできる場所。何もなかった場所を通り、橋とは干渉しない
「橋」の位置については、のちの地図では表記があったりなかったりと安定しない。
1963(昭和38)年には道が出来上がっているが、「橋」の表記はない
資料を見ていくと、のちの戸塚大船線である「新道」が開通したのは戦前の昭和初期~20年ごろのことのようだ。
1963年の「戸塚区明細地図」では、地図の南北を貫く「新道」の下を水の流れが通り(橋としての表記ではない)、東へと流れが続いている様子がよくわかる。また、このころすでに(橋がないにも関わらず)名称として「日之出橋」が使われているのも注目だ。
その後、1991(平成3)年に作られた横浜市都市計画局政策の「戸塚区図」(転載・利用禁止)では、「橋」の存在が復活して記載されている。水路の流れが小さく、橋の扱いも微妙だったようだが、確かに平成の時代まで残っていたようだ。
「橋」の表記がなかった昭和40年の地図に、平成3年の地図を参考に〇をつけた
1880年代の地図と重ねるとこんな感じ。橋の位置は完全に一致する
1880年代にあった「橋」は、地図に記載されない時期があったものの、その後も平成まで残っていたと考えられる。橋の周辺には農地しかなく、生活のための役割は新道(戸塚大船線)ができた時点で失われていたのかもしれない。
「橋」はいまどうなっている?
「橋」の位置を記入した地図と現在の地図を重ねると・・・
(© OpenStreetMap contributors)
確かにセブンイレブン前が橋の位置に!(© OpenStreetMap contributors)
橋の掛かっていた道よりも北側に環状3号線ができたことで、この辺りの構造は大きく変わっている。この地図ではセブンイレブン前に徒歩用の道(旧道)が残されているが、実際には開発が進んでおり、ここは「ライズモール」の駐車場になっている。
ライズモール裏手の駐車場
駐車場の一角にコンビニ。まさにこの位置に、水路が流れ「橋」があったようだ
「sunrise=日之出」をイメージさせる施設名は、この場所にふさわしい
日之出橋交差点付近は開発によって大きく様変わりしているが、地元の方の記憶は正しかった。
環状3号線は日之出橋交差点から西、国道一号線への接続のために延伸していく予定。すでに「橋」の面影から遠ざかっている日之出橋交差点だが、今後はさらに様変わりしていく。
今後は日之出橋交差点から西方向に整備が進む(横浜市HPより)
この先に環状3号線の続きが整備されるようだ
取材を終えて
日之出橋交差点には、小さなお地蔵さまが祀られている。
その名も「日之出地蔵」
刻まれた名前は生田さんではなく竹生田(たこうだ)さん。その由緒は文政10年!
ちなみに、「竹生田七郎兵衛」さんは、柏尾川の石碑にも、堤防を築き水害を防いだ功労者としてその名が刻まれている方。一帯の顔役としての役割を果たしていたようだ。
文政10年、つまり1827年に「日之出地蔵」が作られていたということは、ひょっとしたらお地蔵さまが由来で橋が名付けられ、それがいまも交差点名として残っていると考えられるかもしれない。
かつては存在しなかった二つの幹線道路が交わる場所に名付けられた「日之出橋」の名前は、変わりゆく地域の記憶をとどめるよすがのように思えた。
ー終わりー
Nicksさん
2019年01月10日 02時13分
日之出橋で環状3号は行き止まり。未だに環状線になっていない。日之出橋から国道1号までの区間が事業化されて30年が経過しようとしてると思う。この区間が開通しないので国道1号に至るまで生活道路をくねくねする通過車両も少なくないと思う。横浜市内にとって内陸部の国道1号と湾岸部の国道16号をこの環状3号南側区間でつなぐことは今の横浜の都市計画で最も大事であるといって過言でないと思うだけに、横浜市は少ない自主財源と国や神奈川県の補助や法制度を最大限活用して早急に開通させて欲しいと思う。いまの都市計画の多くは人口330万人位の人口動態から就労人口や通行量を勘案したものと思うが、今や人口370万人を超える一方、横浜南部、南西部、内陸部の人口停滞、商店街シャッター化、高齢化も目立ち始めている。横浜の活力を失わない施策としても大事だと思う。
たもしまさん
2019年01月01日 23時14分
この暗渠の名前は白土谷(しらつちやと)雨水幹線だったと思います。
ホトリコさん
2018年12月26日 12時28分
実家の近く、旭区内だと思うのだが、元は地主が設置した鉄骨とグレーチング鉄板でできた小さな橋が、今は横浜環状2号線の敷地内にありましたが、立派に名前もあったのに忘れてしまいました。勿論、地名にも残っていません。