「ラグビー発祥の地」記念碑の建立場所は、なぜ中華街なの?
ココがキニナル!
ラグビー発祥地の横浜の記念碑はなぜ中華街に建立なの?日本で最初にラグビーをしたのは横浜公園辺りで日本人初は日吉の慶應大学グランド(RWC-RICKYさん、ナチュラルマンさん、ジャン・ヨコハマさん)
はまれぽ調査結果!
日本人初のラグビーチームは慶応大学だが、1866年に発足した横浜フットボールクラブが日本のラグビーの始まり。設立総会が行われた山下町に日本の「ラグビー発祥の地 横浜」の石碑が建立される
ライター:山口 愛愛
実はイギリス駐屯地兵から始まっていた
同協会の事業委員会のイベント部長で記念碑の事務局長を務め、長年横浜のラグビーの歴史を研究してきた長井勉(ながい・つとむ)さんが電話取材に応じ、貴重な資料や写真を送ってくださり、細かく説明してくれた。
日本でのラグビーの発祥が横浜フットボールクラブであるとYC&ACでうかがってきたことを伝えると、「そうですね。YC&ACは1868(明治元)年に設立された歴史あるクラブですが、その2年前に横浜フットボールクラブが誕生し、実はそちらの方が早いんですよ」と長井さん。
YC&ACは1868(明治元)年に設立
横浜フットボールクラブは、横浜の外国人居留地に滞在していた英国駐屯地兵と外国居留地の住民によって構成されたチームだった。イギリス発祥のスポーツということもあり、ラグビーが盛んに行われていたパブリックスクールが多かったため、ラグビー経験者がそろったそうだ。
このような事実はあまり知られていなかったが、浮き彫りになったのは約10年前の2009(平成21)年頃のこと。
横浜開港資料館で、外国人居留地で発行していた1866(慶応2)年1月26日の『Japan Times(ジャパンタイムス)』に横浜フットボールクラブ設立について書いてある記事が発見され、公に広まっていった。
横浜開港資料館で記事が発見された
さらに、1874(明治7)年に発行されたイギリスの雑誌『The Graphic(ザ・グラフィック)』にも、「横浜で行われたフットボールの試合」というタイトルの絵が掲載されていたこともわかった。
そこで、2015(平成27)年にYC&ACの歴史研究員であるマイク・ガルブレイス氏が資料を収集して英国ワールドミュージアムに問い合わせたところ、横浜フットボールクラブが、アジアで最古のラグビークラブであると認定した。これが、新たな事実として認められる決め手となった。
そのため、慶応大学がラグビーの発祥といわれてきたことがくつがえったのだが、日本での初のラグビーの試合は横浜フットボールクラブ対慶応大学であり、初の“日本人チームの誕生”となると慶応大学が先駆けになるというわけだ。
このことから慶応大学日吉キャンパスに、「ラグビー発祥の地」の記念石碑がある
長井さんが1866(慶応2)年のジャパンタイムスの記事を参考に、設立総会の様子を教えてくれた。山下町に石碑が建立される経緯が見えてくる。
横浜フットボールクラブの設立にあたり、1866(慶応2)年1月26日に、中区山下町127番地にあったラケットコート・バンガローで設立総会と委員会構成メンバーを選ぶ会議が開催されたという。場所は、現在でいう、中華食堂「萬来亭(まんらいてい)」近くであると推測される。
現在の萬来亭付近の様子
総会の結果、多数決によって、クラブ会則(かいそく)をつくる委員会(定足数3名)に英国軍の20連隊第2大隊のキャプテンであったロシュフォートとブロント、その他、ケル、デア、プライスが指名された。名誉幹事にはコミュニケーションが取れる協力的なベイカー、名誉会計にはモンクが指名された、と詳しい資料が残っている。
歴史的な場所、山下町127番地は朱雀門の近く
設立メンバーの1人、29歳のロシュフォートは、チェルナトム・カレッジ在学中にフットボールベスト20人に選ばれたこともある実力のある選手だった。
この記事を報じたジャパンタイムスの紙面には「競技を行うグラウンドの確保は難しいことではなく、横浜にはラグビー校やウィンチェスター校の卒業生が2,3人いることから、きわめて優れ、技術的にも高度なプレイが期待できる」と書かれているそうだ。
当時のグラウンドは駐屯地のパレードグラウンド、もしくは埋立地に完成したクリケットグラウンドを使ったのではないかといわれているが、約60ヤード(約55メートル)四方だったため、狭すぎるとの見解もあるようだ。
クリケット場があったのは、現在の横浜公園
公園内の案内パネルには、クリケット場設立の経緯が記されている
歴史をつなぎ、ラグビー発祥の地、山下町に記念碑を建立
長井さんが所持している資料から、誕生当時の様子を年表にまとめると以下のような流れになるので、整理してみよう。
まとめるとこうなる
1873(明治6)年12月に行われた試合のイラスト(マイク・ガルブレイス氏提供:1874年4月”The Graphic”に掲載)
1874(明治7)年に山下町4番地の外国人クラブ「横浜ユナイテッドクラブ」にて、ラグビーを普及していくために横浜フットボールアソシエーション総会が行われる。
横浜ユナイテッドクラブは、現在の県民ホールあたりにあった
しかし、この頃まではラグビーとサッカーのルールが今のようにはっきりしていなかったという。
1901(明治34)年12月、横浜公園にてYC&ACと慶応大学との日本人初の試合が行われる。
日本人が初めてラグビーの試合をした記念すべき慶応大学のメンバー
(元写真の出典は、日本ラグビー協会「80年史」より)
このような歴史があり、中区山下町にある中華街は、横浜フットボールクラブの設立総会が行われラグビー発祥を支えた重要な場所だということがわかる。
こうして、「10年ほど前に1866(慶応2)年の横浜フットボールクラブの設立を知った、当時の神奈川県ラグビー協会会長が日本のラグビー発祥地が横浜であることがわかる記念碑を建立することを発案した。
その後、2011(平成23)年東日本大震災などで話が途絶えたが、3年前に再浮上し、地元行政に改めて相談した」と長井さんが経緯を説明する。
2017(平成29)年秋頃から設置場所や記念碑文案、設置地関係者への説明などを進め、2019(平成31)年2月に建立の協議会を発足。3月末から記念碑建立のための募金活動を開始し、終了したという。現在は、ラグビーワールドカップの開催に向けての建立を目指している。
建立する具体的な場所は、横浜市に相談し「候補地はいろいろありましたが、人通りの多い関帝廟(かんていびょう)通りの山下町公園に置かせていただくことになりました」と長井さん。
記念碑建立予定の山下町公園
こうして、新たな記念碑の建立の歴史を辿ると、慶応大学のラグビー発祥の話が遠いことのように思えてしまうが、山下町にはもう1つラグビーと縁のあるエピソードがあった。
実は、慶応大学にラグビーを指導したクラークの父、ロバート・クラークが山下町135番地の「横浜ベーカリー」でパン屋を経営しており、この場所は記念碑建立地と同じ山下町135番地内なのだ。なんだか、微笑ましくなる。
ちなみに、ロバート・クラークの元で修業した打木彦太郎(うちき・ひこたろう)が元町の「ウチキパン」として、イギリスパンを継承している。
1888(明治21)年創業の老舗、ウチキパンも歴史をつないでいる
日本におけるラグビー発祥の地、中区山下町。この地は、記念碑の建立とともにワールドカップ開催がますます楽しみになる特別な場所であった。
取材を終えて
横浜に滞在していたイギリス人と日本人学生がつないだ歴史。史実を紐解くことで、その原点が現在の中華街にあり、誇りの地であることがよくわかった。協力してくださったYC&AC、神奈川県ラグビーフットボール協会に感謝したい。
ワールドカップでの日本チームの活躍を願いつつ、「ラグビー発祥の地 横浜」の記念碑が完成した暁にはひと目見ていただきたいと思う。
-終わり-
ナチュラルマンさん
2019年07月12日 18時43分
ありがとうございました!日吉の商店街はラグビーを応援しているけど、確かに発祥とは垂れ幕に描いていません、なるほど!