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中華街の区画が斜めなのは、風水説ってホント?

ココがキニナル!

中華街がまわりから見ると斜めなのは、中国人が風水思想に基づいて作った街だからというのは本当でしょうか?(minamiさん、yamaさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

開港以前に造られた新田のあぜ道にそった区画なので、中国人が風水思想に基づいて作ったわけではない。

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ライター:吉岡 まちこ

そのまま区画が使われたことを、さらに裏付ける絵図



1859年の開港後すぐ、幕府は港の近くに外国人居留地を作り始め、海岸沿いには欧米の商館が建ち並んだという。
そして欧米人と一緒に大勢の中国人もやって来て、この地に住むようになった。
でも待って。なぜ中国人が? それは香港や上海にあった欧米人の商館で働いていた中国人は、西洋の言葉や習慣に精通しているうえ、日本人と漢字で筆談できるので欧米人に重宝がられていたからだ。

開港5年後の様子は、こんな様子だったらしい。
 


「御開港横浜正景」元治元年(1864年)頃 (横浜開港資料館蔵)


上にあるグレーの中の囲われた大きな四角は遊郭(今の横浜スタジアム)だから、左下の斜めの区画は横浜新田、つまり今の中華街の予感…。
伊藤さんの話に出てきた絵図をネットで検索している時に、筆者も横浜中央図書館のHPでこの絵の無彩色版を見つけた。ものすごく拡大すると横浜新田の左下にかかる橋の名は「前田橋」と読める。今もその名がある。やっぱりここが中華街だと確信。
 


古文書の専門家に読んでもらったところ、「前田はし」(前田者し=前田橋のこと)とある
地図をもっともっと拡大して見てみたいかたは
こちらから
 

中華街の南門・朱雀門の目の前にあるのが前田橋


伊藤さんは、この地図に“ある”モノを見つけ、ピンと来たそうだ。
最初の古い地図でははっきりわからなかったが、横浜新田の周りにある青い水路の存在だ。
無彩色の地図にも、右下に橋らしきものがあるので水があったのだろう。

この絵図の頃には、もう中国人が住み始めている。
新しい道路がどんどん作られ、外国人居留地が海岸沿いから内陸へと拡げられる大工事の最中に、この水路があったために、斜めの区画がそのまま残ったと推測できたのだ。

水路はこのあと間もなく埋められて道路になった。開港道と南門シルクロードがそれだ。
 


右側の道が、むかし水路だったと思われる開港道




では、なぜ中のあぜ道もそのまま残ったのだろう?



横浜新田の形が水路のおかげで残ったことはわかったが、では、なぜ中国人は田んぼのあぜ道を壊さず、そのまま住み始めたのだろう。
それは、急きょ元町へ立ち退きを迫られた横浜新田の農民と関係があるのではないか、と伊藤さんは言う。
開港後すぐ、土地を幕府に召し上げられた横浜新田。「住んでいた村民には立ち退き一時金と毎年の保証金が与えられたようです。その額は土地の広さに応じて算定されました。区画の形を崩してしまうと、給付金の計算が混乱するので、元々の田畑の形を残しておく必要があったのではないでしょうか」(伊藤さん)
なるほど、ありそうな話。
そして風水的に優れたこの地に目をつけた中国人が、続々と集まって来て栄えたのだ、と考えられる。
 


中華街の第一歩はここにできた病院から始まった。約50年前から山下町公園になった


文久3年(1863年)初めて土地借用の契約をしたのは、135番地の「同済病院」だった。
今の「横浜大世界」の正面を入った左手、「山下町公園」の場所だ。

食の街になったのは戦後、焼け野原からの復興に炊き出し小屋が並んだのが始まりだった。
食の街になったのは戦後、焼け野原からの復興に炊き出し小屋が並んだのが始まりだった。今は220店以上も中国料理店がある。
 


昭和30年に立った初の牌楼(はいろう)善隣門。ここに「中華街」と掲げられ、中華街と呼ばれるようになった
 

関帝廟は150年前の当初から今の場所にあった。今の建物は4代目




取材を終えて。でもまだ残る謎。



中国人が横浜に住むよりもずっと前に、中華街の前身となる横浜新田はできていた。
そして、斜めの区画もその頃にできあがっていたことが古地図からわかった。
だから中国人が風水に基づいて、あの斜めの区画を作ったというのはあり得ないというわけだ。

でも、ここに来て、どうしてもひっかかることが…。
どうして横浜新田は、東西南北に沿ってあぜ道が作られたのだろう??

横浜新田は、他の新田のように豪商豪農が投資してできたのではなく、横浜村の村民が自分たちの手で力を合わせて埋立てた新田だった。
水路から水を引く角度がたまたまちょうどよかったのか、伊藤さんもそこは不明だと言う。
あるいはここだけは条理制か陰陽道に基づいて東西南北をきちんと測ったのかもしれないが、偶然だったにせよ何にせよ、そのおかげで中華街だけが他と切り離された異次元空間のような魅力になったのだから、やっぱり縁起が良かったといえるのかも?と思った。



― 終わり―
 

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  • もともとの川岸の形状に影響されて畦畔や道が作られたに過ぎない。中華街などずっと後に形成されたのだから、風水で道路を聞きなおしたのではない。畦畔がそのまま道路として整備されていくのは自然なこと。日本国中いくらでも類例はある。風水に影響されたとの考えは、後付けの理屈。また「条理」ではなく「条里」です。こんなところに条里制の影響はない。

  • “風水思想に基づいて作ったわけではない”とのことですが、「では、なぜ中のあぜ道もそのまま残ったのだろう?」の段落内に> そして風水的に優れたこの地に目をつけた中国人が、続々と集まって来て栄えたのだ、と考えられる。とあります。“風水的に優れたこの地”とは、いったいどういうことなのでしょうか?風水思想に基づいて作ったわけではない、という結論である以上、記事において、なぜ “風水的に優れたこの地” なのかという説明をしていただかないことには、なんとも後味の悪い感じがするのは私だけでしょうか?風水思想に基づいて作ったわけではないが、たまたま風水的に優れていたということでしょうか?とするならば、“風水思想に基づいて作ったわけではない”という結論もなんだかあやふやなものに感じてしまいます。

  • ブラタモリで埋め立てる前の海岸線に垂直に道が作られたってやってませんでしたっけ?

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