かつて新子安にあった海水浴場はどんな感じだった?
ココがキニナル!
昔の新子安は海水浴場で有名で、昭和初期までにぎわっていたそう。夏は京急も特別ダイヤで運行し、新子安駅から海水浴場までの道沿いには露店が軒を並べていたそう。当時の様子を知りたい(ねこぼくさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
京急が1909年に埋立地に開設した「新子安海水浴場」は、休憩所や桟橋も備え人気を集めたが、工場の増加にともない20年ほどで幕を降ろした
ライター:永田 ミナミ
にぎやかな夏の思い出
現在の守屋町3丁目を歩いてみると、当然どこまでも続く工場倉庫地帯である。この海で大勢の人が海水浴を楽しんでいたのは90年も前のことだから、当時を直接知る人を探すのは難しいだろうとは思ったが、ひととおり歩いたあと、駅前に戻ってみることにした。
たなびく煙と巨大なトラックが行き交うばかりの午後の工業地帯に人気はない
恵比寿橋をはさんだ反対側の、海が浅いことがわかる風景
右側を守屋町、左側を恵比須町にはさまれたこの日の海を泳ぐのは
水鳥くらいのものであった
一般の人が歩けるのは赤い部分だけなのですぐ歩き終わる。石碑の場所も紹介
ふたたび新子安橋を渡って第一京浜まで戻ってくると、思わず二度見してしまう看板が目に入った。
たばこ屋の看板に書かれているのは「創業95年」の文字
何てちょうどいい古さなんだ、と期待に胸躍らせて橋を駆け降りたが、残念ながら現在は自販機のみの営業のようで、ガラス越しに見えるがらんとした店内には、補充用のたばこが入った段ボール箱が積み上げられているだけだった。
やはり90年という時間の流れは、街を様変わりさせるにはあまりに充分か、と少し諦めかけて駅前まで戻ってくると、素晴らしい趣の店を発見。以前はまれぽでも取り上げた市民酒場である。
市民酒蔵 諸星。ど真ん中の「ビール」の赤文字の頼もしさよ
暖簾をくぐって取材内容を伝えると、3代目のご主人が答えてくださった。
諸星がもともと酒屋として開業したのは明治の終わり頃で、海水浴場の開設と同時期だったという。遠浅の海水浴場では潮干狩りができたため、当時は酒屋の店頭でも潮干狩り用の熊手を売っていたという話も聞いたことがあるそうだ。
ただしあくまで聞いた話だからということで、守屋町・町内会長の伊東秀紀さんを紹介してくださった。
ケチャップ発祥の地が新子安であることも教えてくださった伊東さん
伊東さんは、『かながわ区物語 海・緑・街・人』で海水浴場について詳しい話をしている荒木良重さんとも知り合いだったそうだが、残念ながら荒木さんは数年前に亡くなられており、当時を知る人はもうほとんどいないという。
やはり90年というのはあまりに長い時間だった。埋立てのために切り崩されたという一之宮神社にも何か当時を知る資料でもあればと問い合わせてみたが、海水浴場の話は知っているものの写真などは残っていないとのことだった。
埋立てがおこなわれる前はもう少し高い山だったという一之宮神社
ほかにも駅に隣接する本慶寺、踏切寺として知られる遍照院、周辺の古くからあるいくつかの店にもきいてみたが、「昭和の初めまであった」「戦前まであった」ということ以上に知る人には出会えなかった。
取材を終えて
埋立地ができてから工場が立ちならぶまでの約15年間存在した、新子安海水浴場。荒木良重さんは資料のなかで「まだ、工場もなかったからねえ。子供のころは埋立て地でよく遊んだもんだよ」と語っていた。
かつては子どもが遊ぶ空き地が、そこらじゅうにあった。そうした空き地には、遊ぶために整備された公園にはない自由の匂いが溢れていたが、同時に空き地はいつか開発の手がのびてくる、期限付きの場所でもあった。
言ってみれば人工的につくりだされた巨大な空き地に人工的につくられた新子安の海水浴場は、土管が積まれていたドラえもんの空き地なんかよりも、はるかに確実に開発の気配と背中合わせだったのであり、やがて消えゆくことが決まっていた海水浴場だったのである。
最後に海を見ようと歩く道すがら、工場で働く人たちとすれ違いながら、そんなことを思った夕暮れであった。
恵比須町の果てまで歩くと左にベイブリッジ、右にはみなとみらいが見えた
参考文献
『京浜電気鉄道沿革史』杉本貫一編(京浜急行電鉄株式会社 1949)
『横浜商業遊覧案内』和田萬之助著(1913)
『京浜湘南沿線案内』京浜電鉄・湘南電鉄編(1933)
『横浜市町名沿革誌』横浜市役所文書課編纂(1939)
『京浜急行百年史』京浜急行電鉄株式会社編(1999)
『かながわ区物語 海・緑・街・人』横浜市神奈川区役所区政部区政推進課(1988)
『京急電鉄 街と駅の1世紀』西潟正人著(株式会社彩流社 2013)
『京急の駅 今昔・昭和の面影』佐藤良介著(JTBパブリッシング 2006)
『京急 各駅停車と各駅物語』三浦一男著(東京新聞出版局 1998)
『値段の明治大正昭和風俗史』週刊朝日編(朝日新聞社 1981)
大口菊名さん
2014年05月07日 08時56分
昭和55年頃、恵比寿橋の袂は艀溜まりになっていて、よくダボハゼ釣りやってました。いろいろと昔の話は聞いてきましたが、海水浴場だったとは!とても興味深い記事でした。永久保存版です!
デーブ渡邊さん
2014年05月02日 16時22分
きっちり資料を集めてよく調べられたレポートだと思います。身近な「気になる」に対して、しっかり答えてくれていて横浜の歴史に関する新しい知識をいただきました。ありがとうございます。
緑区ジュースさん
2014年05月01日 22時25分
親戚が明治時代まで鶴見で漁業をやっていました。泳げない海になるまで、わりと短期間だったんですね…。