戦前・戦後、横浜にかつて存在していた四つの飛行場の歴史を一挙に調査!
ココがキニナル!
横浜には富岡飛行場・根岸飛行場・伊勢佐木飛行場・間門飛行場の四つの米軍関係の飛行場があったようですが…跡地には石碑などが残されているのでしょうか?他にもあれば教えて下さい。(ちびろさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
戦前・戦後合わせて、横浜にあった飛行場は四つ。米軍が飛行場として使用していたのは「若葉飛行場」と「間門飛行場」の二つで、両方とも石碑はない。
ライター:橘 アリー
混乱しがちな、横浜の飛行場!?
今回の調査は、戦後の横浜にあった米軍関係の飛行場の跡地に、石碑のようなものがあるのかと土地面積について。
飛行場のイメージ(フリー画像より)
キニナル投稿には、富岡飛行場・根岸飛行場・伊勢佐木(若葉)飛行場・間門飛行場の四つが米軍関係の飛行場だったとある。
この四つの飛行場は、確かに、以前、横浜にあった飛行場で、投稿にあるように、この全部が米軍関係の飛行場だったと思っている方も少なくないであろうが、実際は少し違っている。
富岡飛行場と根岸飛行場は日本の飛行場だった
富岡飛行場と根岸飛行場は二ヶ所とも、水面で離着陸できる飛行艇専用の飛行場で、戦前は日本が所有する施設だった。
富岡飛行場は、以前に、富岡総合公園の記事中に記載している。
跡地には記念碑となる「隊門」と海軍飛行艇隊の殉職者を祀る「浜空神社」があり、土地面積は、横浜スタジアム約14個分にあたる21万9208平方メートル(約6万6千坪)。
この富岡飛行場は、1936(昭和11)年に横浜航空隊(浜空)の開隊に伴って作られた飛行場で、1945(昭和20)年の太平洋戦争の終戦まで使用されていた。
隊門には「元横濱海軍航空隊隊門」と記されている
もともとは飛行艇専用の飛行場だったため、滑走路はなかったそうだ。太平洋戦争が終わった後は米軍に接収され、飛行場ではなく「富岡倉庫地区」という施設名で、倉庫施設として使われていたそうだ。
1971(昭和46)年に返還され、さらに4年後の1975(昭和50)年には、その一部が公園として開放された。それが現在の富岡総合公園だ。
「浜空神社」の様子
根岸飛行場については、筆者が以前に調査している。
こちらも、記事で分かるように、跡地には記念碑があり、面積は約6万6000平方メートル(約2万坪)。こちらは横浜スタジアムで換算すると約4個分。
根岸飛行場は、1940(昭和15)年に、大日本航空株式会社によって作られた、日本で初めての飛行艇専門の民間飛行場で、南洋諸島パラオ島への定期航空路が開設され、終戦直後の1945(昭和20)年9月に台湾に向けて紙幣の輸送をしたのが、この飛行場からの最後の飛行である。
記念碑の様子
終戦後には、富岡飛行場と同様に米軍に接収された。
根岸飛行場も、飛行艇専用の飛行場で滑走路がかった。そこで米軍は、滑走路として使うために、隣接していた海岸沿いの場所を根岸飛行場と併せて接収。「JLC在日兵站司令部〈ざいにちへいたんしれいぶ〉)滑走路・修理部」という施設名で飛行場と修理を行う施設として使われていたそうだ。
接収されていた様子が書かれている資料の一部
そして、この「JLC滑走路・修理部」こそが、間門(まかど)飛行場とも呼ばれていた場所である。つまり、根岸飛行場だった場所は間門飛行場の一部として使用されるようになったのである。
「JLC滑走路・修理部」は施設としての正式名称で、一般的には、戦前にあった根岸飛行場と区別する意味で、間門が近かったので、「間門飛行場」と呼ばれたようだ。