JR山手駅前の唐突な感じで積まれた巨大な石の正体は?
ココがキニナル!
山手駅を立野小学校側に降りて線路に沿った細い道を根岸方向に進むと、右手にお城の石垣に使われそうなくらい大きな石を使った壁があります。こんなところにナゼ?昔何かあったの?(tanukiさん)
はまれぽ調査結果!
1948年ごろに崖の補強工事としてつくられた石垣。当時の土木科が工事を行ったものと思われる。
ライター:小方 サダオ
問題の石垣について周辺住民に伺う
(つづき)
続いて商店街にお店を構えるYさんにお話を伺った。
「この石垣の前にはドブ川があり、坂の上の家からの家庭排水が流れてきていました。大雨が降ると上流にあった釣堀の池の水があふれ、コイが流れてきたこともありました」
「また近所の家の人が、お盆のお供物の米などを捨てるのに使ったりしていました。それが駅前の上り坂と合流するあたりから土管の中へと入り、大和町商店街で曲がり大通りの方面に流れて行き、千代崎川に合流していました。私の家はドブ川沿いの現在の駅舎のあたりにあり、駅が出来るために商店街に移転しました。以前ここには八百屋などがあり、美空ひばりの父親のお妾さんが経営していた魚屋は有名でしたよ」
現場でお話をしてくれたYさん
小川を再現したイメージ図
川底までが深かった、という
「私が小学校低学年のころのことです。ドブ川に進駐軍のトラックが坂の上から転落したことがありました。『車が落ちた!』との声を聞き、私は友達5~6人で行ってみました。するとコカ・コーラのビンが散乱していたので、みんなで落ちているのを拝借して飲んじゃったのです。はじめてのコカ・コーラでしたが、お酒みたいなもののように感じました。この川沿いの坂の上にはウォーカー中将などが住んでいて米軍関係者の社宅などが多くありました」と答えてくれた。
進駐軍の家族住宅があった、という、根岸森林公園の一等馬見所
根岸にある米海軍施設
つぎにYさんが「自分の先輩だ」という人のところに連れて行ってくれた。
こちらの仮名Aさんが、問題の石垣が誕生したいきさつについて語ってくれた。
「現在駅のある場所には下駄屋さんや八百屋さんや魚屋さんなど家が並んでいました。私の家はその並びの一軒で、Yさんの5軒ほど隣でした」
山手駅が建つ以前は商店が並んでいた
「その向かいには崖沿いにドブ川が流れていました。ドブ川の崖には現在、立野小学校の周囲に使われているような普通の石が使われていました」
立野小学校の石垣。以前はこのような石が問題の石垣に使われていたのかもしれない
「以前は崖の上には土が盛られていて、竹が何本も生え、桜の木も一本ありました。そのため見通しが悪く、道がカーブしていることが分かりづらかったのです」
根岸森林公園方面へと続く、問題の石垣の上の坂道
道が細く、曲がっていて、向こうから来る車が分かりづらい
「またこのあたりには進駐軍の施設が多くあったのです」
現YC&AC(横浜カントリー&アスレティッククラブ)には米軍墓地があったという
1868(明治元)年に設立された日本最古の国際スポーツクラブだ
「1948(昭和23)年ごろのことです。進駐軍の8人乗りのトラックが、坂を曲がりきれず、崖下のドブ川に落ちる事故があったのです」
根岸森林公園方面から問題の石垣へと向かう
道幅が狭く、急に左に曲がっている
進駐軍のジープやトラックが崖下の川に転落する事故があったという
進駐軍のジープやトラック(『報告書占領軍のいた街』横浜市史資料室)
進駐軍のジープ
問題の石垣の坂道はスクールロードとある。スクールバスも通ったのだろうか?
「事故現場を見ましたが、トラックが逆さになっている光景を今でも覚えています。その事故の後、市か衛生局かどこの部署が行ったかはわかりませんが、崖の石を変え、今の頑丈な石で石垣をつくり直すことにしたのです。家が目の前でしたので、日に日に出来上がってゆく石垣を見ていました。見たこともない大きな石でどこから持ってくるのかな、と不思議に思っていました。私は、あれは自然石ではなく、護岸にあるような型にはめて作るコンクリートのブロックなのではないかと思いますよ」と答えてくれた。
坂の上から見た問題の石垣。厚みがありそうな石だ
巨大な石に挟まれている、色が異なる小さめの古そうな石は、元の石垣のものだろうか?
Sさんはジープよる死亡事故、YさんとAさんはトラックによる事故とのことで、同じような事故が何度もあったために、進駐軍からの要請で、市の担当部署が石垣の補修を行ったのではないだろうか?
石材屋にお話を伺う
ところで石垣の巨大な石は、なんという種類の石なのだろう。
山手駅から少し離れた石材屋のIさんにお話を伺った。すると「これは御影石(※注:みかげいし、花コウ岩質の岩石)の一種ですね。全体的に白い石で、黒い部分は汚れです。石の間の隙間を埋めるためにモルタルを詰めていますね。これは土建業者の仕事で、我々石屋の石の積み方とは違います。しかしこの石垣は頑丈そうに見えますが、表面の石垣の部分は飾りのようなものなので、壁の内側が砂を敷き詰めたりして丈夫にできているかどうかが大事なんです」と答えてくれた。
黒い部分は元からの色ではなく、汚れのようだ
さらにある地元の人から、石垣の前の坂を上った先に、問題の石垣と同じ石材を使ったと思われる場所が2ヶ所あることを教えていただいた。
坂を上った先にある御影石と思われる壁
しかし所有者によると、壁の方は「あの真中だけ色の変わった壁の場所は私たちの土地で、私の夫の祖父の代がつくったものと思われます」とのこと。
私道に敷かれた御影石と思われる石。問題の石垣のものより小さい
また道路の敷石の方は「この道は私たちの私道です。私の夫の祖父が敷いたものだと思います」と教えていただいた。どちらも100年近く前のことになりそうだが、問題の石垣とは関係がなさそうである。
ところで石垣の工事を行った部署に関して、前述のAさんが言っていた「衛生局」というものがキニナった。それは古い住宅地図によると「横浜市清掃局中尾台清掃出張所」という当時の衛生局の出張所が近くにあったからだ。
そこで健康福祉局(旧衛生局)環境施設課の石原さんに伺うと「根岸外人墓地の管理に当たっていた事務所であったと思われます」とのこと。
また「当時の衛生局の業務は広い範囲にわたっていた」とのこと。さらに「墓地の墓石は御影石であることが多い」ことを教えてくれた。
根岸外人墓地のお墓
1951(昭和26)年の『横浜市市政概要』によると、進駐軍関係清掃という業務があり、下水の維持管理として下水補修という項目があることが分かった。
石垣の近くに出張所のあった衛生局が、下水の流れる川の維持管理の一環として、崖の補強工事としてこの石垣をつくったのかもしれない。
また御影石を石垣に利用した理由に関しては、近くの根岸外人墓地や現YC&ACにあった米軍墓地のため、墓石に利用される御影石の運搬ルートが確立していたことが関係していたのではないだろうか。
墓地の墓石は御影石が多いという
米兵と日本人女性の間に出来た「GIベビー」を弔うための慰霊碑もある
取材を終えて
山手には居留地の時代から、外国人関連の施設が多かった。戦後も進駐軍の住宅や施設などができ、そのため米兵による狭い山道での交通事故もよく起こったのかもしれない。事故後に市が巨大な石を使った石垣をつくったのは、山道を通行する進駐軍に崖の頑強さを印象づける石垣をつくろうとしたためではないだろうか?
頑強さを感じさせる巨大な御影石による石垣
―終わり―
yuuhodouさん
2015年08月23日 14時51分
ここは千代崎川の支流があった場所ですが、千代崎川については河口から源流まで詳しく調査を行いました。この記事に載っている橋を残したり碑を作った(最終的には横浜市に行って頂いた)張本人です。つきまして、千代崎川について知りたいと思う人がおりましたら、そう思うにクリックして下さい。数が多ければキニナルの調査対象となるでしょう。その場合、勿論取材は喜んで受け、素晴らしい記事になる自信はあります。
エアバスさん
2015年05月19日 16時47分
この記事を見て、急に懐かしくなり、何十年ぶりかでここを訪れてみました。前の私のコメントに対して「千代崎川は、自分で調べるべし」という反応のようだったので、記憶をよみがえらせて訪ねたところ、旧千代崎川に蓋をしたという記述のある看板を見つけました。ここら辺り(山手駅から大和町に抜けるあたり)は、店は代わっても、昔の記憶をたどれるくらいには、面影は残っていました。
ushinさん
2015年04月18日 11時37分
「当時の土木科が工事を行った」・・・どこかの工業高校の実習ですか?ボクは市役所の土木「課」だと思うよ。あと、見つけたからってやたらと「進駐軍のジープ」の写真掲げているけど、主題はそこじゃないよね?