根岸駅近くにある根岸飛行場跡について詳しく教えて!
ココがキニナル!
根岸駅の近くにある交差点「プールセンター入口 交差点」に根岸飛行場跡の看板があります。看板にも説明がありますが、もっと詳しく知りたいですお願いします。(はまっぷさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
根岸飛行場は日本初の飛行艇専用民間飛行場であり、南洋航路定期便が運航していた。戦争が激しくなった頃には特攻隊員の移送もされていたという。
ライター:橘 アリー
根岸に飛行艇専用の飛行場があった
キニナル投稿にある横浜市磯子区西町「プールセンター入り口交差点」付近に設置されている看板を確認してみた。「根岸飛行場跡」と書かれたその看板には、ここが、1940(昭和15)年に大日本航空株式会社によって作られた、日本初の飛行艇専用の民間飛行場だったと記されている。
根岸飛行場跡の看板
看板内地図部分を拡大
「大日本航空株式会社」とは?どうして根岸に飛行場を?普段はあまり馴染みのない飛行艇もキニナル。
まずは、大日本航空株式会社や根岸飛行場について書かれている書籍を参考に調査を開始することに。また、看板の設置団体の一つ磯子区郷土史ネットワークの代表を努められている葛城峻さんにもお話を伺い、貴重な資料をお借りした。
大日本航空株式会社とは?
インターネットで大日本航空株式会社について調べてみると、大日本航空社史刊行会編『航空輸送の歩み―昭和二十年迄―』という書籍の存在を知った。まずはこの本を参考に根岸飛行場ができた経緯を追ってみる。
「航空輸送の歩み―昭和二十年迄―」大日本航空社史刊行会編
大日本航空株式会社は1938(昭和13)年12月、官民出資の国策会社として、日本の航空輸送事業を飛躍的に発展させるために設立された。また同時に、海軍が企図する南洋委任統治諸島への航空路計画も大日本航空に担当させたとある。
大日本航空の運航路線は、国内のローカル線や北京線(福岡―青島―北京)、南京線(福岡―上海―南京)、東京―バンコク線、そして南洋方面線(横浜―サイパン―パラオ、南洋島内線)などがあった。
大日本航空の設立経緯からすると、根岸飛行場は海軍の南洋方面への航空路計画と関係がありそうだ。
『航空輸送の歩み』によると、日中戦争(1937年~)と歩調を合わせるように日米関係が悪化しつつある状況で、南洋の委任統治領を日本の防波堤と考えるようになったとある。しかし、当時この重要な島々と本土を結ぶ交通機関は船舶のみで、横浜から3日ないし1週間を要する“きわめてのんびりとした有様”だったそうだ。
そこで、当時、高速交通機関として力を発揮し始めた航空輸送が注目され、海軍内部で海洋航空路開発の必要性が論じられたとある。このような状況から、その海洋航空路開発の使命を担当する「海洋部」が大日本航空設立と同時に同社内部に設けられたのだ。
南洋諸島へ向けて根岸湾を離水する九七式飛行艇(葛城さんの資料より)
大日本航空の海洋部は当初、富岡にあった横浜海軍航空隊内の施設を間借りするようなかたちで仮事務所である「横浜支所」を設け、1939(昭和14)年3月に業務を開始した。
なぜ富岡かというと、ちょうどその頃、横浜海軍は川西四発大型輸送飛行艇を使用し、南洋諸島方面へ洋上飛行訓練を実施していたからだ。海洋部はその飛行艇に便乗し、航空路や現地の視察、飛行訓練を行った。
磯子区役所発行の『浜・海・道』によると、1939(昭和14)年4月には、富岡から初の定期便がサイパンを経由してパラオに行き、その後、根岸飛行場ができるまで月2、3回のペースで飛んでいたそうだ。乗員は横浜海軍航空隊員と大日本航空の混成チームで、民間の定期便としての飛行だけではなく、民間機であれば怪しまれないという理由から、軍の南洋方面の偵察も兼ねていたそうだ。