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銀座や浅草で有名な老舗百貨店「松屋」は横浜発祥って本当?(前編)

ココがキニナル!

銀座の松屋が昔、石川町付近にあったらしいのですが面影は?(yokkoさん)松屋が、単に伊勢佐木町にも有ったし戦前吉田橋のたもとにあったが位置関係がわからない(ushinさん)

はまれぽ調査結果!

現在の松屋の原点は、1869(明治2)年に石川町地蔵坂下に創業した鶴屋呉服店である。現在面影はなく、鶴から獅子へと変わりマンションになっている

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ライター:永田 ミナミ

再び、亀の橋



東京に新たな拠点を設けた鶴屋呉服店だが、開業間もないころ売り込みに行った問屋が「亀の橋の鶴屋は実際に忙しいお店で、到底昼間は品物を見て頂く時間が無く、朝早くか、夜で無ければ駄目であった(松屋発展史)」と語ったという盛況ぶりそのままに、横浜石川町亀の橋でも順調に成長を続けた。
 


1897(明治30)年には隣接する油屋、魚屋を買収し、街区全体が鶴屋の敷地となった(『松屋百年史』より)
 

1901(明治34)年には、河岸通り(中村川)沿いに隣接する米屋「まつき屋」漬物屋「玉川屋」を買収、まつき屋跡に木造2階建を建築して新店舗建築中の仮営業場とした。

この改築にあたって、1879(明治12)年以来営業してきた2階建の店舗は、1895(明治28)年に地蔵坂上の山手町に建てた古屋徳兵衛宅の敷地内に移築された。その後建物は関東大震災にも耐えたが、1945(昭和20)年5月28日の横浜大空襲で焼失した。
 


山手に移築されたあとの2階建て店舗を写した1枚(提供:株式会社松屋)
 

そして1903(明治36)年、黒壁土蔵造り総2階建ての堂々たる店舗が完成した(提供:株式会社松屋)
  

この写真絵葉書はこのときの建物だったのだ(提供:横浜市中央図書館)
 

1903(明治36)年4月24日の横浜貿易新聞掲載の広告に「新築落成ニ付来ル五月三日四日五日三日間大売出シ」「二階総陳列縦覧御随意」「午前六時開店」とあるこの土蔵造りの新店舗は「二階総陳列」を導入した点で革新的であった。

江戸時代以来、呉服店では客が店内に入ると畳に上げ、売り子が商品を出し相対して見せ販売する「座売り」が主流であったが、1895(明治28)年に三越が店内の一部に客が自由に手にとって商品を見ることができる「陳列販売」を採用。1900(明治33)年には座売りを全廃し総陳列場としたことで注目を集め、販売方式が大きく変化していく時代であった。

1903(明治36)年に横浜で最初に陳列販売を採用した鶴屋はかなり早い段階での導入だったといえるが、広告に「二階総陳列」とあるように、1階は旧来の座売り方式であり、2階の陳列場へは1階の土間で下足番に履物を預けて上がるようになっており、過渡期的な形態でもあった。

また、このころから呉服太物だけでなく、半衿、袋物、小間物、傘などの関連商品から次第に多様な商品を扱うようになり、百貨店への道を歩みはじめていた。
 


山手に住む外国人も多く来店するようになり、英文の営業案内がつくられた(提供:株式会社松屋)
 

ちなみに「太物」とは綿織物や麻織物など、絹織物に比べて太い糸を使用するものをいう。「呉服」は和服全体も指すが、特に絹織物を指す場合に「呉服太物」と称した。「半衿」は飾りや汚れ防止のために襦袢や長襦袢の衿の上から重ねる衿、「袋物」は紙入れ、蝦蟇口(がまぐち)、手提げ袋など、「小間物」は日用品や化粧品、装身具などである。

その後も1905(明治38)年10月に横浜市から日露戦役戦勝祝賀記念の手拭10万本を受注するなど、亀の橋鶴屋呉服店は順調に業績を伸ばしていった。

1907(明治40)年には、市区改正に伴って神田の今川橋松屋呉服店は店舗を三階建洋風に増改築(デパートメント・ストア式の外観でつくられた東京で最初の建物)した。これにあわせて、創業以来用いてきた鶴屋と松屋のの商標を廃止し、松鶴マークに変更した。
 


鶴屋と松屋はひとつの商標になり、このときから現在まで108年使用されている
  
 
保存されていた当時の包装紙。このマークは1912(明治45)年に商標登録された(提供:株式会社松屋)
  

冒頭で紹介した広告で使われていたのもこのマークである(提供:横浜市中央図書館)
 

そして翌1908(明治41)年の1月2日、亀の橋鶴屋呉服店は1階も陳列販売に変更して総陳列となり、初売出しを開催した。また5月1日には2階の一部に「五十銭均一販売部」を新設した。

さらに1910(明治43)年10月1日には、土蔵造りの店舗の建築中に仮営業場としていた隣接地に増築を進めていた3階建洋館が完成。開店にあわせて大売出しを開催した。このときはじめて女性店員が4~5名入店した。
 


この3階建て西洋館には客食堂も開設され、百貨店としての要素が次第に整っていく(提供:株式会社松屋)
 

1911(明治44)年11月1日には、吉田橋の開通式が行われた(提供:横浜市中央図書館)
 



火の用心



このころになると、亀の橋鶴屋呉服店は、毎年春と秋に静岡市と沼津市で、夏には鎌倉由比ケ浜に天幕を張り避暑客に向けて出張販売を展開。ほかにも伊勢丹と協同で程ケ谷(現在の保土ケ谷)の富士瓦斯紡績会社での出張販売をおこなうなど、創業以来、順風満帆とも言える成長を続けていた。もちろん神田の今川橋松屋呉服店も順調であった。

しかし、風向きは時に変わるものであり、そしてこればかりはどうしようもないことである。

1914(大正3)年1月5日午前0時ごろ、新たに馬車道(真砂町)に建設中で月末に竣工予定だった木骨煉瓦造り4階建の別館店舗(間口14間、奥行13間)が、完成直前に1階より出火し全焼してしまう。

これにより別館の計画は一度白紙に戻ることになるが、1917(大正6)年には第一次世界大戦にともなう大戦景気のピークを迎え、1919(大正8)年3月1日、古屋合名会社松屋呉服店、および古屋合名会社鶴屋呉服店の営業権一切を譲り受けるかたちで「株式会社松屋鶴屋呉服店」(払込済資本金百万円)を設立するなど成長を続けていた。
 


陳列式の店内の写真が印刷されていて、写真を囲む鶴も素敵な包装紙(提供:株式会社松屋)※クリックで拡大
 

1920(大正9)年には戦後恐慌がはじまるが、堅実な経営によって鶴屋呉服店は影響を受けなかったという。ところが1921(大正10)年1月30日午前4時ごろ、今度は亀の橋鶴屋呉服店新館地下室より出火し全焼。土蔵造りの旧館もほぼ全焼してしまった。

しかしながら火災からわずか12日後の2月11日には当時の横浜市太田町3丁目に臨時営業所を設置し、営業を開始。さらに火災から9ヶ月半後の11月15日、亀の橋鶴屋呉服店は新築落成(木造総2階建、延べ260坪)し、営業を開始するのである。
 


みるみるうちに新築され1921(大正10)年11月1日に開業した新たな鶴屋呉服店(提供:株式会社松屋)
 

上の写真には1922(大正11)年に設置された「無線電話開設」の看板も見える。この無線電話は横浜貿易新報社との間で日本最初の民間無線電話の交換を行った。
 


関東大震災



こうして馬車道と亀の橋で2度の火災を経験しながらも、すぐに立ち上がり新たな店舗で歩みだした鶴屋呉服店だったが、その歩みは2年を待たずにまたもや灰燼に帰すことになる。1923(大正12)年9月1日、関東大震災の火災によって、主要店舗(今川橋、亀の橋)および付属建物商品などすべてが焼失するのである。

しかしながら、鶴屋および松屋の行動は今回も早かった。震災からわずか1ヶ月余りの10月5日に四ツ谷見附交差点角、魚金(うなぎ屋)の2階を借り四ツ谷売店を開設、その13日後の10月18日には地蔵坂上(横浜市中村町)に売店を開設、営業を再開した。
  


地蔵坂上売店は鶴屋呉服店、鶴屋呉服店実用品部、鶴屋食堂と3軒の平屋で営業した(提供:株式会社松屋)
 

その後も10月26日に東京の大森駅前に大森売店、11月1日には銀座ビルディング内に銀座売店、日比谷交差点日比谷ビルディングに日比谷売店、横浜の東神奈川に二ツ谷売店を次々に開店した。また、11月6日銀座ビルディング内において松屋食堂を開始している。

こうした東京3店、横浜2店の売店を開業した素早い対応には、震災で生活用品を失った人々のためもあったが、各売店に職場を確保することで従業員を失業状態に陥らせないという意図、そしていずれ本店を再建した日のために人材を維持するという意図もあったという。

さらに震災から3ヶ月後の12月には「横浜市伊勢佐木町警察署跡土地借用願」を神奈川県知事に提出する。この伊勢佐木町警察署というのは吉田橋横にあった。つまり、投稿にあった「戦前吉田橋たもとにあったというが位置関係がよく分からない」松屋とはこの場所にできる松屋を指すのだが、この続きは後編で。
 


というわけで後編に続く



今回は石川町に1869(明治2)年に創業してから1923(大正12)年の関東大震災まで、幾度かの改築を経ながら鶴屋呉服店が成長していく過程をたどった。

そしてたどってみると、改築や陳列販売の導入、火災後の再興や震災後の対応など、時代や状況の変化を的確にとらえ、素早く行動に移したことが躍進の原動力となったことがうかがえる。また、震災のあと打ちひしがれることなくすぐに立ち上がり、次の方向へと進んでいく姿勢は、人々に復興の希望と力をあたえたのではないかと思われた。

さて、石橋を叩いて渡るのではなく、人の往来が多いところに次々と橋を渡していくような鶴屋呉服店の「石川町編」はここまで。
   


次回は石川町亀の橋を離れていよいよ「伊勢佐木町編」へと物語は進む
 


―続く―


参考文献
『松屋百年史』社史編集委員会編/松屋/1969
『松屋発展史』関宗二郎編/デパスト社/1935
『実業之横浜(第6巻第1号)』実業之横浜社編/実業之横浜社/1909
『横浜市誌』越智剛二郎編/横浜市誌編集所/1929
  

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  • よく横浜は東京に依存してるとか言われるが、自立してる都市など近代国家ではありえない。横浜市民やさいたま市民などが東京に通勤しなければ東京の大企業はどこも業務上自立出来ない。食料の自給だって同じことだ。東京近県や東北・信越から食料を依存しなければ、都民も横浜市民も自立したな市民生活はありえない。シルクロードの時代から都市は相互依存の関係でなりたっている。ちなみに栃木県企業の世界中でのBDやDVDやHDDの基板のシェアは100%。世界中が栃木県に依存しているのだ。

  • 松屋は銀座へ完全転出してしまい横浜松坂屋(旧野澤屋)は消滅してしまい、結果的に横浜発祥の百貨店が完全になくなってしまった事は大変残念であると当時に、「横浜」は日本第二の都市でありながら完全なる自立は出来ずに永遠に東京に依存した都市であると実感させられる。松屋は既にビルも自己所有ではないが、旧松坂屋(現カトレアプラザ伊勢佐木)は今でもグループ所有であり、低層のそれも安物ばかり寄せ集めた店舗構成には閉口してしまう原状は、何とか松坂屋の小型店舗として再開発願いたいものだ。効率最優先の大丸主導のグループ企業では無理なのだろうが・・・続編の記事にも期待。

  • 明治初期から関東大震災までの松屋の前身、鶴屋呉服店の躍進ぶりは凄いなと。着々と店舗面積を拡大しつつ、震災で店舗が焼失するも早々と再建。あの時代にあって何ともお店の底力をみたような気がします。次回が楽しみです。

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