旭区の三叉路のド真ん中にある邪魔な像の正体は?
ココがキニナル!
旭区の今宿南町1848番地付近の三叉路の中心に墓なのか地蔵なのかよく分からない石でできた古い物体が置かれています。周辺は道が狭くこの物体のせいで通行しにくいです。あれは何ですか?(ねこみくさん)
はまれぽ調査結果!
古くからこの地域で祀られてきた庚申塚。像の鎮座していた塚を削って道を拡張したために、交差する道路上にあることが際立って見える形になった
ライター:小方 サダオ
庚申塔のほかにも、残されている像があった
ところで庚申塔を北上したところに「地神塔(※大地の神・農業の神を祀る塔)」という石碑が立っているのが、キニナった。二本の道をはさんだ空き地に堂々と立つその姿から、この地域の住人の歴史的な遺物を大切にする姿勢を感じた。
庚申塔(青丸)と地神塔(緑丸)の位置
前出のAさんに地神塔について伺うと、「地神塔の近くでは、社日の日(しゃにちのひ、春分・秋分に最も近い日)に農作業を休んでごちそうを食べるお祭りがありました。それは農家同士の情報交換の場で、春に種の技術などを仲間から教わった後に、秋の収穫の時になって『うまく行った』などの報告をするのです。それを『地神さまのおかげ』といい、敬ったのです。昭和50年ごろまではそのような祭りをこの地域で行っていました」という。
庚申塔の近くに立つ地神塔
農業の神・土地神様を祀る地神塔
今は空き地のようだが、以前は田んぼに囲まれていたのかもしれない
男性の話と丁重に祀られた庚申塔などの様子から、この地域では農業が盛んで信仰深い人が多かった印象を受けた。
さらにDさんは、自宅の敷地内にある、「謎の石碑」も案内してくれた。
「貞享(江戸時代の元号)二年」「南無妙法蓮華経」「美濃部(美濃部家は徳川家旗本として江戸幕府に仕えた。甲賀武士)」などの文字が刻まれている。
Dさん宅では毎年供養を欠かさないという
Dさんは以前祖父などから言い伝えとして、「この地域に一時、美濃部家の一族が住んでいた」ことや「その時代に差別的な扱いをされて亡くなった女性がいて、供養塔はその罪滅ぼしの意味なのではないか」との話を聞いたという。
Dさん宅の方角を向いた「謎の石碑」
Dさん宅を向く形で裏山の崖沿いに立っているため、こちらに背を向け木々に覆われたほうを向いている。供養塔のようなので、Dさんの墓地に移転する話も出たが、Dさんの祖父などが反対して今のままにしてあるとのこと。
何も語らない供養塔は、どのような経緯で建てられたのだろうか。たとえ由緒の不明なものでも、先人たちの強い意志によって守られ同じ場所に立っていることが、庚申塔の例と重なった印象がした。
さらにこの地域の農業の様子について『旭区郷土史』で調べると、農業に向いていない土地だったようで、「旭区内の田のほとんどは谷合を流れる水を利用したもので、灌漑(かんがい)利用の米作りと比べると生産性が低かった。その水は水温も低く稲の成長に良くなかったため、ぬるめの水路を作ったりと工夫をした。しかし技術を改良しても農地自体がやせていた」とのこと。
農地改良が難しい土地だっただけに、地元の農民は地神祭などの農業についての会合を熱心に行うとともに、土地の神様への信仰心も強くなったのではないだろうか。
取材を終えて
庚申塔は「庚申さま」と親しまれ、豊作や家内安全を祈願する、辻や村の守護神とされていたという。この地域では信仰心の篤い人たちの意思で保存された形になっていて、元の位置と変わらない場所に鎮座していることで、通行する車や地域の安全などそのご利益を発しているのかもしれない。
同じ場所に変わらず鎮座し続ける庚申塔
-終わり-
参考文献
「今宿のあゆみ」(横浜市立今宿小学校・昭和60年)
「旭区郷土史」(保土ケ谷区郷土史刊行委員会・昭和13年)
ナチュラルマンさん
2018年05月17日 03時52分
かえって邪魔と思われるものを敢えて残すことは交通安全になるという考え方があります。港北区錦が丘の場合、桜並木を自動車の通行の障害にし、交通事故を減らしています。これは邪魔とは失礼な!交通安全の守り神ですよ!