日本初の跨線橋は? 横浜・神奈川区の青木橋と東京・品川区の八ツ山橋はどっちが古い
ココがキニナル!
青木橋は1870年にかけられたとされていますが、なぜか日本初の跨線橋は1872年にかけられた八ツ山橋と言われます。これはどうしてでしょうか。青木橋の歴史を調べて真相を確かめてください(ねこぼくさん)
はまれぽ調査結果!
青木橋の完成は、記録によれば確かに八ツ山橋より早い。にもかかわらず八ツ山橋も日本初の跨線橋と呼ばれるようになったのは、鉄道開通期に合わせたからという可能性がある。
ライター:結城靖博
もう一つのセット工事の現場
実は新橋~横浜(桜木町)間の鉄道を通すためには、もう1ヶ所、神奈川宿付近と同じような工事をしなければならない場所があった。それが品川宿付近の高輪から八ツ山橋にかけての一帯なのだった。
ただし、こちらの事情は横浜とはちょっとちがう。横浜は「ルート短縮」が目的だったが、品川の場合、政治的な問題が絡んでいたからだ。
『今昔マップon the web』より作成
上の時系列地図は、右が現在の高輪~品川付近、左は1909(明治42)年に測図された同じ場所を示す地図だ。左の地図の青・赤・黄は筆者が加えたもの。
青が当時の線路だが、実はその大半が海岸線の陸路ではなく海上を通っている。なぜか?
それは外国人流入による治安悪化を恐れ、かたくなに鉄道建設に反対していた兵部省(陸海軍)、その中心人物だった西郷隆盛の薩摩藩邸がこの付近に点在し、鉄路敷設を拒んでいたからだ。地図の黄色い箇所が、ざっくりだが明治初期に薩摩藩邸があった場所だ。
そこで大隈重信ら鉄道建設推進派は、ここでも「だったら用地交渉が不要な海に線路を通そうじゃないか」という奇策に転じ、約2.7kmの壮大な海上築堤建設を敢行する。
八ツ山橋の南側から望む。かつてこの先は海上を汽車が走っていたんだなぁ・・・
さらに、その先を南下すると鉄路は陸へ上がり品川へつながる。
時系列の左の地図で赤く囲った辺り。ここに海にせり出す八ツ山・御殿山(ごてんやま)がルートをふさいでいたので、そこを切り通す工事(全長741メートル)と、切り通しのために分断される東海道をつなぐ跨線橋・八ツ山橋の建設が必要となった。青木橋が生まれた事情と、とても似ている。
ところが高輪・品川付近の3点セット工事は、薩摩藩の反対、近隣漁民の補償要求、さらには台風などの影響もあり工期がずれ込んでいく。
高輪築堤と八ツ山・御殿山の切り通し工事は1870(明治3)年11月から始まり、約1年半をかけて1872(明治5)年6月に切り通しが竣工。築堤の完成にいたっては鉄道開通直前の同年9月のことだった。
その間、問題の八ツ山橋は、すでに書いたように品川区ホームページによれば、1871(明治4)年5月に着工し、切り通し工事より一足先の1872(明治5)年1月に完成している。
今は立派な鉄橋だが・・・
初代の八ツ山橋は全長16.2メートル、幅7.2メートルの西洋型木造橋だった。