西区の久保山墓地はどうやってできた?
ココがキニナル!
浜の隠れた観光スポット?夜の最強デートスポット?な西区久保山墓地。なぜにこんな一山丸ごと墓地に?また誰か著名な人物のお墓はあるの?(yamaさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
明治政府の意向で3つのお寺の墓地を移設して造られたのが始まり。市営墓地と民間墓地が入り混じっており、民間墓地には三溪園で知られる原三溪(富太郎)氏のお墓もある
ライター:田中 大輔
いつかは誰もがお世話になるお墓。
お盆の時期にご先祖様や家族のお墓参りに行った人も多いのでは。
お寺の墓地にしろ公営の墓地にしろ、ひとつの場所にたくさんの墓石が建てられている場合が多く、大きなお寺なんかだと迷子になってしまうことも。
そんな巨大墓地の最たる例のひとつと言えそうなのが、山ひとつをまるまる墓地にしている久保山墓地だ。
見渡す限りのお墓
久保山墓地をインターネットで検索してみると、横浜市営の墓地と書かれていて、市のサイトにも情報が掲載されている。
山のてっぺんにある市営バスの久保山霊堂前というバス停で降りると、そこから北側の斜面を下るように墓地が広がっている。
ざっくりとした地図だが、広いのは伝わってくる
バス停のそばにはこんな案内図も出ていて、かなり広い墓地だということが分かる。
実際、どのくらいの規模なのかというと……
手前から奥までびっしりとお墓が建てられている
見渡す限りのお墓。しかも、この写真は墓地のほんの一部。
お参りする人もどこに目的のお墓があるのか分からなくなってしまいそうなほど、墓石が建てられている。
周辺には市営の斎場のほか、石材店やお墓の管理や休憩所をうたう茶屋、さらにはお寺もたくさんある。そういった久保山墓地と関わりのありそうな施設ばかりが目立つことからも、この辺り一帯に墓地の存在が根ざしているのがうかがえる。
久保山墓地ができるまで
そんな久保山墓地の歴史を探るため、市営墓地を所管する健康福祉局環境施設課に取材をお願いした。
対応してくれた田口さん(左)と相澤さん
まずは墓地の面積やお墓の数を聞いてみると、総面積は12万6213㎡で横浜スタジアム5つ分ほど。お墓は1万3940基(現在建っているお墓の数ではなく、建てられる区画の数)というとんでもない数字。
できた時期はと言うと、「明治7(1874)年のことですね」という答え。
かなり古いが、「東京にある青山霊園や谷中墓地とだいたい同じ時期です」と田口さん。
同時期に大規模な墓地が造られたのには、実は理由がある。
明治に入り、神道国教化を目指す新政府はいわゆる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を行う。その中で、お寺の用地などが没収されるケースも多かったんだそうだ。
没収したとはいえ、お墓がある以上そのまま放っておくわけにもいかない。
そうして取り上げた土地を自治体が管理する公営墓地としてまとめて移設したのが、久保山墓地や青山霊園、谷中墓地のような形で残っているのだという。
久保山墓地の場合、野毛にあった大聖院、南区にあった林光寺、福富町にあった常清寺の3寺の土地が主になって、明治7年に造られたというわけだ。
現在の大聖院。3寺とも、今は墓地のすぐそばにある
こちらは林光寺。3寺の中でいちばん墓地に近い
常清寺は加藤清正公をまつっているお寺
これが久保山墓地の始まりということだが、当時は今ほどの広さはなく……
航空写真で見ると墓地の広さが改めて分かる
赤い枠で囲った辺りだけが墓地の敷地だったんだとか。
当時この辺りにはなにもなく、土地が取りやすかったことから現在の場所に造られたのではないか、とお二人は話してくれた。
正式な記録は残っていないそうだが、市営部分は1939(昭和14)年ごろに今と同じくらいの広さになったんだそうだ。
ちなみに、今後のさらなる拡張については「増設する場所がないので、考えにくいですね」とのことだった。