横浜マイスターがいる反町の靴店って?
ココがキニナル!
反町のガーデン下商店街に、とてもイケメンのお兄さんが働いている靴の修理屋さんがあります。横浜マイスターハドソン靴店、中に入ってみたいので先に見てきて下さい!(がこさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
横浜市から選定された横浜マイスターを持つ師匠から、靴を手仕事で作ったり修理したりできる技術を受けついだ若い職人がいる古き良き靴店だった!
ライター:クドー・シュンサク
イケメンがいるということで、どんな靴屋かと、ハドソン靴店をインターネットで検索。出てきたのは、爽やかな好青年の写真と横浜マイスターという言葉。キニナル投稿にもあったように、そのお兄さんは横浜マイスターという称号を与えられているということなのだろうか。
そのキニナルイケメンのお兄さんと、靴店の様相をうかがいに、反町方面へと向かった。
横浜マイスターハドソン靴店
東急東横線反町駅から徒歩5分程度、ガーデン下の商店街に味わいのある外観と独特なオ
ーラを放つ靴店に到着した。
きれいなガラス張りながら歴史を感じさせる、軒先
幾分、近寄りがたい雰囲気は感じられたが、中に入ってみると若く爽やかな好青年が、優しい笑顔で迎えてくれた。どうやらこの人で間違いないようだ。
村上塁(むらかみるい)さん30歳独身
さっそく、村上さんにご本人の経歴や、靴職人としての思いなどを伺うことに。
作業台に座り、ゆっくり話し始めてくれた
まず、靴職人と一言で言っても、さまざまな過程における職人がいるそうで、例えば、木型師や靴のデザインをする人、靴の縫い合わせなどの分業制となっていて、その中で村上さんは、靴の底を作って皮を取りつける底付け師を専門にしている。
ここハドソン靴店は、村上さんが靴の技術を教わった師匠の1人、佐藤正利さんが1961(昭和36)年から始めた店で、佐藤さんが亡くなられた年の1年後、2011(平成23)年の5月に村上さんがオーナーとして新たに店を開業した。
当初は同じ靴職人の仲間と2人で再び立ち上げたハドソン靴店も、開店1ヶ月で意見の違いから仲間が辞めてしまい、村上さんが、製造からオーダー、修理、経営までを1人で担うことになってしまった。「あのときは大変でした。もう閉店しちゃうのかなって正直思いました」と村上さんは振り返る。
今は亡き、先代の佐藤正利さん
村上さんは横浜マイスターをお持ちなのですかと尋ねると「いや、横浜マイスターの称号を持っているのは、佐藤さんです」と懐かしむように、店に飾ってある佐藤さんの写真を眺める村上さん。
横浜マイスターとは、市民の生活や文化に寄与する優れた技能を持ち、後継者の育成、技能の継承などを目的として横浜市から選定された人のことを言う。
佐藤さんは、約50年間、紳士靴の底付け師として靴のオーダーから修理までを行い、すべて手仕事で製作する職人だった。その技術は有名人からオーダーがいくつも入るほどの腕前だったそうだ。
佐藤さんの写真は店内を眺めるように飾られている
佐藤さんとの出会いは、村上さんがまだ靴に関しての専門学校に通っていた頃、もっと専門的な手仕事の技術が学びたいと、専門学校の先生に紹介してもらった。そこが佐藤さんが横浜マイスターとして未来の靴職人を育てるために開いていた、靴の技術を学べる教室だった。
それから村上さんは、佐藤さんの確かな技術と人柄に惹かれ、専門学校を辞めて教室に通うようになったそうだ。そこで、村上さんは紳士靴における手仕事のノウハウを教わったという。
佐藤さんについて村上さんは、「職人の中では格別に優しい人で、何でも教えてくれる人でした」と振り返る。
また、印象的だったのは、「技術さえあれば、食いっぱぐれはない」という言葉。根っからの職人気質だった。
先代が経営していた頃の写真。当時、靴の小売りもやっていた
村上さんが佐藤さんの亡きあと、この店を譲り受けることになったきっかけは、「若い人を育て、後世まで技術を伝えたい」という佐藤さんの思いから、村上さんにお声がかかった。
村上さんも丁度、自分の工房を探していたところで、運命だと思い、佐藤さんが残していった、工房と靴をつくる道具を引き継げることをとても光栄だと感じたという。
そもそも、村上さんが靴屋を目指したきっかけは、手を動かして物を作る仕事がしたかったため。
「手仕事ができるのであれば、大工さんでも車の修理屋さんでも良かったんです。そんなときテレビを観ていたら、たまたま靴屋の職人の特集をやっていて、一瞬で魅了されてしまいました」
ここでキニナル現在の店内の写真を。
作業台前に並べられた修理待ちの靴
作業台。ここで手仕事がされている
棚に並べられた木型や素材の数々
靴を修理するための機械が並ぶ
店内はお客さんが店の外から見て、どんな作業をしているのか分かるように村上さんが配置したそうだ。