「上大岡」があって「下大岡」がないのはなぜ?
ココがキニナル!
上大岡によく行きますが、「大岡」「上大岡」があるのになぜ「下大岡」がないのか前々からキニナルので、ぜひとも調べてほしいです。(ロイヤルさん/浅田真央子さんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
現在の南区大岡のあたりは、かつて「下大岡村」と呼ばれていた。村々の合併や、横浜市への編入を経て消失した。
ライター:ナリタノゾミ
江戸時代中期から1889(明治22)年の市町村制施行までの間、現在の南区大岡・大橋町・中島町・通町・若宮町と港南区上大岡西(一部)・上大岡東(一部)にあたる一帯は「下大岡村」、そして現在の港南区上大岡東1~3丁目、上大岡西1~3丁目の一帯は「上大岡村」と呼ばれていた。
この両村は、もとは「大岡郷」または「大岡村」と呼ばれる、1つの村であったが、元禄年間(1688~1703年)から、上下に分けられるようになった。
下大岡村は現在の京急弘明寺駅の東側に存在した。
ピンク色で囲った部分が下大岡村エリア
現在、上大岡村にちなむ「上大岡」という地名は残っているが、下大岡村にちなむ地名は残っていない。同地域は、どのような変遷を経て現在に至っているのか。
「大賀」から「大岡」へ
1828(文政11)年に成立した地誌、「新編武藏風土記稿」によると、「大岡村」または「大岡郷」と呼ばれるエリアは、古くは「平子(たいらこ)庄」と呼ばれていた。平子氏は、かつて鎌倉幕府の創設に尽力した三浦一族を祖とし、鎌倉時代から室町時代まで続いた一族である。
後北条氏の支配に入ると、大岡村エリアは御馬廻衆(おうままわりしゅう:大将の馬の周囲で護衛にあたるなどした職制のひとつ)の荻野氏の領有地となり、「武蔵国久良岐郡大賀郷」と称されるようになる。「大岡」という地名は、「大賀(おおが)」が「大岡(おおおか)」へと転訛(てんか)したものだという説が有力である。
1591(天正18)年、徳川家康が江戸に入り、横浜市域は東海道筋の地域を含め徳川家の直轄領となると、同エリアは、検地帳に「久良岐大岡郷」と記録されるようになる。
正保年間(1644~1647年)においても、同エリアに上下の区別はなかったが、元禄年間(1688~1703年)から、郷帳(幕府が作成していた帳簿)において、「上大岡村」「下大岡村」と、分けて明記されるようになった。
税収の高い1つの村を2つに分け、それぞれを異なる領主に支配させる手段は「二給地」と呼ばれ、往々にして行われていたようだが、大岡郷にもこの手段がとられたのだった。
旧鎌倉街道(大岡1丁目)。下大岡村から上大岡村へとつながる道
1594(文禄3)年の検地帳によると、大岡郷の正保年間の村高は726石。近隣の村々の中でも税収が極めて高かったとされる。
例えば、大岡川の氾濫による田畑の被害が少なく、また吉田新田の開発前までは製塩が盛んに行われるなど、恵まれた土地として評価されていた太田村(大岡郷の北部に位置する)の正保年間の生産高が622石と記されていることからも、大岡郷の税収の高さをうかがうことができる。
こうして、大岡郷は上下に分割され、大岡川上流の村は「上大岡村」、下流の村は「下大岡村」と名付けられた。下大岡村は旗本・佐野六右衛門正周に与えられ、子孫代々の知行所となった。
蛇行の多い大岡川は古くから「九十九曲り」と称されていた(観音橋付近)
村を2つに分けることで、村の経営は複雑になった。
境界付近の土地をどちらの村に含めるかで揉めたことから、上大岡村と下大岡村との間には飛び地が多く境界は定かではなかったという。
下大岡村の人々の暮らしぶり
下大岡村は、大雨が降ると真っ先に洪水の被害を受ける村であったという。
蒔田方面へ大きくカーブしながら河口へ向かう大岡川の南側(現在の大橋町・中島町・通町のあたり)には、水によって運ばれた土砂が堆積し、氾濫原(河川が氾濫した際に浸水する範囲の平地)が形成されていた。
現在の地図上での下大岡村エリア
弘明寺の寺院から下大岡村方面を眺める。
吉田新田開発以前はここから大岡川河口が見えたそうだ
寺院付近にいる飼い猫