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横浜大空襲と川崎大空襲の慰霊施設はどこにある?

ココがキニナル!

横浜大空襲と川崎大空襲の慰霊施設の取材をお願いします(小鳩さんのキニナル)/夢見が崎動物園の慰霊碑について、設置の経緯等を取材して欲しいです(jbさんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

横浜市、川崎市にはいくつかの戦争関係の慰霊碑がある。その中には大きな空襲以外に、局地的な空襲に対しての慰霊碑もある。

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ライター:松崎 辰彦

横浜 平和

念碑



慰霊施設──平和な時代の私たちに、かつてこの地に戦争があったことを教えてくれる碑である。無数の人が炎や銃弾に倒れ、命を失ったことを語り継いでくれる物言わぬ証人である。
横浜大空襲、川崎大空襲ともおびただしい人命が失われ、地上に老若男女の遺体が散乱した。その惨状を語り継ぐことを目的とした慰霊碑は、複数存在する。今では平和な横浜・川崎の、思いがけない過去への道標となってくれる。

横浜市営地下鉄、阪東橋駅を出て、1分ほど歩くとその碑に着く。
平和祈念碑・・・1992(平成4)年5月29日、横浜戦災遺族会が建立した戦争犠牲者を悼む施設である。
 


平和祈念碑


場所は大通り公園にあり、てっぺんにある不思議な形をしたオブジェが目を引く。これは古代中国殷(いん)時代の金文を立体構成したものであり、「愛をもって世界の平和を祈念する」という意味であるという。
 


愛をもって平和を祈念する、という意味とのこと


制作は彫刻家の横田七郎氏。
この碑の特徴は、文字による解説が詳しいことである。書物の形に説明文が、日本語と英語の両方で書かれている。

1941年12月8日 日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により 大日本帝国は 連合国軍との間に戦端を開くに至った。その後1945年8月15日に至り わが民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。

(中略)横浜はこの間三十数回の空爆をうけた。特に1945年5月29日白昼 当時世界最大級の重爆撃機B29五百余機 随伴戦闘機P51百余機の連合軍機により 市内は絨毯爆撃を受けること一時間余。焼夷弾換算四十三万余発の投下により市内は焦熱地獄の様相を呈し 非武装の民衆に万余の犠牲者を生ぜしめた。

(中略)この地に戦火止みて既に四十数年の歳月が経過したが 残された遺族の心の傷は今なお癒えることはない。当時を知る遺族も その多くは鬼籍に入り 犠牲者達の恒久平和を希求する声なき声を伝うべきよすがとて失われようとしているこの時 遺族縁類相倚り相扶け 私財を投じ 心ある市民の合力を得て 平和祈念碑建立を発願した。

(中略)この人類至高の祈りが 志ある人々により継承発展され 犠牲者も平和の使徒の先駆者として 至福の時を 共に迎える日の近きことを信ずる。


こうした文言が刻まれている。
 


 

由来が書かれている


横浜大空襲の死者を悼む碑であると同時にすべての戦争犠牲者を悼む、横浜の中でも代表的な慰霊施設と考えてよいであろう。



慶珊寺(けいさんじ)の慰霊碑



1945(昭和20)年6月10日。横浜市磯子(現・金沢)区富岡町の湘南富岡駅(現・京急富岡駅)周辺で空襲があった。5月29日の横浜大空襲の直後で、人々もまさか再び空襲がくるとは思っていなかったのではないか。
 


京急富岡駅


午前9時半ごろ、B29による爆撃が開始。富岡周辺には横浜海軍航空隊と日本兵器産業があり、それらを狙ったとも言われている。そのとき富岡駅に入ってきた電車が爆撃を避けるために山を貫通して作ったトンネルに逃げ込んだが、そのトンネルの前後に数十発の爆弾が投下された。トンネル内はすさまじい爆風を浴びて修羅場と化した。

250発の爆弾が落ちたというこの富岡空襲の死者は、約100名だという。そのうち、約40人の遺体がここ慶珊寺に運ばれた。
 


慶珊寺


「松の木と門の間におよそ40体の遺体が並べられました」と佐伯隆定(りゅうじょう)住職はそのときの様子を回顧する。当時まだ子どもだった住職も、その後に寺を継いだが、当時の出来事を留めるモニュメントの必要を感じて、供養塔を建てた。
 


慶珊寺にある供養塔


横浜大空襲の影に隠れ、富岡空襲はさほど知られていない。しかし、こうした悲劇があったことを、供養塔はいつまでも語り継いでくれるのである。