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横浜に古くから伝わる昔話を教えて!

ココがキニナル!

小学2年生の息子の国語の教科書で、「自分たちの住む所の昔話を読んでみよう。」という項目があり、神奈川県だと『金太郎』があるのですが、横浜にも昔話ってあるんですか?(ぐうたら主婦さんのキニナル)

はまれぽ調査結果!

「横浜村」に限定すれば『舟のり地蔵』がほぼ唯一の昔話か。明治以降に広げると、横浜には数十話におよぶ昔話がある。

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ライター:松崎 辰彦

“横浜の昔話”とは



足柄山の金太郎は、マサカリを担ぎ、クマと相撲をとる。童心そのもののキャラクターで、元気な男の子の象徴である。足柄山は神奈川県と静岡県にまたがる山だが、金太郎の伝説は、歌舞伎などの芸能を通じて人々に知られるようになったといわれている。

横浜の昔話、と聞いて横浜市民の皆さんは、どんな話を思い浮かべるだろう。
有名なところでは“またたびを食べた3匹の猫が踊った”といわれる横浜市営地下鉄踊場駅付近の伝説だろうか。あるいは孝行息子が酒の池を見つけ、父親に飲ませたという泉区に伝わる『樽見橋(たるみばし)』の話だろうか。
 


市営地下鉄線踊場駅にある碑。何匹ものネコ(?)に守られている
 

“踊場”の由来が書かれている


しかし、いま挙げた二つの話は、もとより“横浜”の話ではない。
読者もご存じのように、江戸時代まで、「横浜」──正確には“横浜村”とは現在の山下町にあたるごく狭い地域の名称に過ぎなかった。
 


1600年代の横浜の図


こうした視点で投稿者の質問を精査すれば、このおよそ100戸に過ぎない小さな村の昔話のみが真正の「横浜の昔話」といえるわけで、それ以外の地域に伝わる昔話は、厳密にいってしまえば明治以降に横浜市に編入された地域の民話ということになる。
それでは横浜ならぬ“横浜村”に伝わる話はどのようなものがあるのだろう。



横浜にはさまざまな昔話がある



ここでお話を伺ったのが、『80年以上伊勢佐木町とともに歩み続ける「イセビル」の歴史を教えて!』でとり上げたNPO法人悟空研究所。悟空研究所は横浜の民話をとり上げ、それを子どもたちが紙芝居や劇にして発表するという活動を続けている。
 


悟空研究所の理事長・印南(いんなみ)勝さん(左)と副理事長・笠井潤子さん


副理事長の笠井さんはいう。
「横浜の民話とは、はっきりいうと漁師一家が海で遭難し、村人がそれを悼んで地蔵を祀った『舟のり地蔵』の話だけだと思います。あとの民話は、ほとんどほかの地域のものということができます」

『舟のり地蔵』は悲しい話である。

『舟のり地蔵』(中区)

享保のころの本牧の話である。幾日も荒天が続き、漁師一家は海に出られないでいた。「今日も駄目だ。とてもおれの舟では出られない」
漁師はもう20日も海に出ていなかった。
「こんな年はなかった。お天道様は俺たちの心を知らないのかな」
そんな主人を、女房は慰めていった。
「長い漁師暮らし、こんなときもあるだよ。でもまた、いいときもあるよ。ほれ、いつかの大漁のときのように」
翌日、子どもたちが浜辺から飛んで帰ってきた。
「海が凪いでおるぞ。早く漁へ出よう」
 


昔はこのような舟や漁具で海に繰り出したのである(八聖殿郷土資料館の展示)


一家6人で海に出たが、家族はみな魚をつり上げ、大漁だった。
しかしやがて、黒雲が近づき、海は荒れ狂った。一家の舟は必死に逃げたが、暴風雨にかなうはずもなく、6人とも海の底に呑まれていった。
翌日、浜辺に6人の遺体が打ち上げられた。父親と母親の間に、子どもが抱かれていた。村人は6人の供養のために六地蔵を造り、それを6艘の舟に載せて極楽浄土へ送ってやった。これが六艘地蔵で、明治の初めまで本牧の浜に立っていたが、今は東福院(とうふくいん)に移された。
 


東福院の六艘地蔵


──かつての漁村には、こうした哀切な実話が数多くあったことだろう。