戦前・戦後、横浜にかつて存在していた四つの飛行場の歴史を一挙に調査!
ココがキニナル!
横浜には富岡飛行場・根岸飛行場・伊勢佐木飛行場・間門飛行場の四つの米軍関係の飛行場があったようですが…跡地には石碑などが残されているのでしょうか?他にもあれば教えて下さい。(ちびろさんのキニナル)
はまれぽ調査結果!
戦前・戦後合わせて、横浜にあった飛行場は四つ。米軍が飛行場として使用していたのは「若葉飛行場」と「間門飛行場」の二つで、両方とも石碑はない。
ライター:橘 アリー
「間門飛行場」の跡地は?
「間門飛行場」があった場所は、横浜市中区根岸町と鳳町(おおとりちょう)である。
接収されたのは1945(昭和20)年9月25日で、1955(昭和30)年3月11日~1960(昭和35)年6月30日にかけて解除された。
前述したように、接収中は飛行場としてのほか、修理を行う施設として使用されたそうだ。
面積は、19万5162平方メートル(5万9140坪)で、横浜スタジアムの約12個分。跡地に記念碑は存在しない。
中区史で、飛行場の滑走路の様子を見ることができる
1947(昭和22)~1948(昭和23)年当時の航空写真
上の写真のうち、赤の枠内が戦前の根岸飛行場で、赤と黄色の枠を合わせた所が、「間門飛行場」である。
黄色の左側の方が滑走路になっている。
滑走路があった近辺の現在の様子
真っ直ぐ伸びた道路が滑走路を思わせなくもないが、周辺に名残りは何も残っていない。
続いて、伊勢佐木(若葉)飛行場について。
伊勢佐木(若葉)飛行場は?
伊勢佐木(若葉)飛行場があった場所は、横浜市中区若葉町と末吉町近辺で、施設名は「飛行場」である。
太平洋戦争後、米軍によって接収されたのが1945(昭和20)年9月25日。一人乗りの小型郵便機やオートジャイロ専用の飛行場として使用されていたようだ。
面積は、2万3635平方メートル(約7162坪)で、横浜スタジアムの約1.5個分。跡地に記念碑は存在しない。
当時の様子(米軍の飛行場:横浜市史資料室)
1947(昭和22)~1948(昭和23)年当時の航空写真
写真のなかの、黄色の枠内の辺りが飛行場である。
飛行場があった場所の様子
こちらも、真っ直ぐ伸びた道路が滑走路を思わせなくもないが、周辺に名残りは何も残っていない。
最後に、ほかにも飛行場があったのかについて。
「横浜市史資料室」のほか、「横浜市基地対策課」「神奈川県基地対策課」「防衛省広報室」に問い合わせてみたが、前述した四つ以外は、横浜市に飛行場はなかったそうである。
取材を終えて
今回の調査で、横浜に米軍関係の飛行場跡の石碑のようなものはないと分かった。
それでも、跡地にある真っ直ぐに延びた道路が、なんとなく飛行機の滑走路を思わせる。
横浜に飛行場があった当時を思いながら、周辺を散策してみてはいかがでしょうか。
―終わり―
ushinさん
2014年06月06日 12時10分
近現代史ものは、いつもいいね!
kazさん
2014年06月02日 12時59分
興味深く読みました。国土地理院の地図・航空写真閲覧サービス( http://mapps.gsi.go.jp/ )で古い航空写真を見ることができるので確認してみました。伊勢佐木の若葉飛行場は1947年の航空写真に、根岸の間門飛行場は1956年のものに滑走路がはっきり写っています。記事に示されたのはちょっと位置がずれているようです。若葉飛行場はもうちょっと上で、記事写真は枠線で滑走路が半分隠れちゃってます(^^;)。間門飛行場は1947年にはなく、その後記事写真外のさらに右側が埋立てられて、そこと黄枠右側を合わせて滑走路が作られているのが1956年の写真から判ります。
Kanapikaさん
2014年06月02日 10時44分
浜空神社自体は今は追浜の雷神社に移されてて、碑のみが残ってますね。