山下公園前にある「横浜人形の家」の誕生秘話と、その生みの親・大野英子さんについて教えて!
ココがキニナル!
山下公園前の人形の家は元町大野真珠オーナーだった大野英子氏のコレクションを集めたもので真珠のミキモトと関係があったそう。鳥羽の真珠が元町で売られた経緯や人形の由来を教えて(katsuya30jpさん)
はまれぽ調査結果!
大野英子さんは御木本幸吉氏の通訳を務めた後に、宝石店を元町に開店。人形を通じて世界を伝えたいと、世界中から約5000体の人形を収集した
ライター:篠田 康弘
横浜の観光名所のひとつ、横浜人形の家。毎日多くの観光客が訪れているが、人形の家の資料によれば世界140ヶ国以上、約1万4000体の人形が収蔵されているそうだ。
横浜人形の家
実はこの「人形の家」、ある一人の女性のコレクションを展示するために開設されたのが始まりである。
その人が、今回紹介する大野英子さんだ。日本初の女性通訳として世界を股にかけて大活躍し、その後、元町で真珠店を営み「ハマの女真珠王」と呼ばれた女性である。
日本初の女性通訳
大野さんは1907(明治40)年、画家・濱木幸四郎(はまき・こうしろう)とその妻・キンの娘としてこの世に生を受けた。4歳の時に母が亡くなったため、旅館を営む叔母・大野シュンの養女となり、この時から大野姓を名乗るようになった。
外交官を夢見て、学生時代から熱心に英語を勉強していた大野さんは、学校卒業後にジャパン・ツーリスト・ビューロー(現在のJTB)に入社し、1933(昭和8)年に国家資格である通訳案内士試験を受験。受験者120人のうち17人しか受からなかった厳しい試験に見事合格し、日本初の女性通訳となった。
日本初の女性通訳誕生を伝える、当時の新聞記事(ご親族様提供)
その後は通訳として大活躍。大野さんの名はアメリカでも知られるようになり、当時のアメリカ大統領であったルーズベルト大統領にも面会している。
そんな大野さんの活躍を見て、ぜひ自分のところで働いてほしいと言ってきた人物がいた。世界で初めて真珠の養殖に成功し、御木本真珠(現在の株式会社ミキモト)を創業、「真珠王」と呼ばれた実業家、御木本幸吉(みきもと・こうきち)氏であった。
御木本幸吉氏(ミキモト提供)
御木本幸吉氏の通訳として活躍
大野さんが御木本真珠で働いていた当時の話を伺えないかとミキモトに相談したところ、現在ミキモト本店で『銀座から世界へ、世界からGINZAへ「銀座と共に歩むミキモト」展』という展示会が開催されており、そちらで大野さんのことも紹介しているという情報をいただいたので、会場にお邪魔してさまざまなお話を伺ってきた。
通訳ガイドとして旅行に同行した大野さんの語学力に感服した御木本氏は、ぜひ自分のところで働いてほしいとヘッドハンティングを行い、大野さんを御木本真珠に迎え入れたそうだ。
御木本幸吉氏(中央)と大野英子さん(右端)を紹介する英字新聞記事(ご親族様提供)
その後大野さんは、御木本氏の通訳兼秘書として働き、1937(昭和12)年に御木本真珠が銀座に新店舗「御木本ネックレース店」を開店させた際に、こちらの店長に就任した。
当時の御木本ネックレース店の店内(ミキモト提供)
当時は女性が洋装を着始めたころ。この店は女性をメーンターゲットとしており、大野さんをはじめ店員はすべて女性という、この時代としては革新的な店だったそうだ。
また当時は日本土産に真珠を購入する外国人がたくさんおり、店舗には語学と真珠両方の知識を持った人材が必要だった。そういった点からも、大野さんは最適の人材だったようだ。
御木本ネックレース店は1945(昭和20)年1月の空襲で消失してしまったが、大野さんはその後も御木本氏の通訳兼秘書として、1951(昭和26)年まで御木本真珠で働いた。