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栄区の「しびれ」という謎の地名の由来は?

ココがキニナル!

昭和41年戸塚区明細地図に柏陽高校の東(旧大船PX)、鍛冶ケ谷カトリック教会の南側に「しびれ」という地名が見えます。一体どういう由来があるんでしょう・・・?(紀洲の哲ちゃんさん)

はまれぽ調査結果!

「しびれ」の由来は、栄区にある證菩提寺(しょうぼだいじ)と関連のある地名で、当時の僧侶の名前の一部から名づけられた可能性がある。

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ライター:小方 サダオ

地図に載る「しびれ」の地名



投稿によると、1966(昭和41)年戸塚区明細地図に「しびれ」という変わった地名が載っているという。

 

鍛冶ヶ谷カトリック幼稚園教会の南にある「しびれ」(1966<昭和41>年戸塚区明細地図)
※クリックして拡大
 

拡大すると、中野町にカッコ枠で「しびれ」とある
 

早速図書館で調べてみると、たしかに小ヶ菅谷町近くの鍛冶ヶ谷カトリック教会の南側にあり県立柏陽高校の右上あたりに、ひらがなで「しびれ」と書かれている。

ほかの町名と違いカッコ枠で表示されているので、正式な地名ではないのかもしれないが、ひらがなで書かれた「しびれ」の文字は印象的で、キニナル。

では、現地の様子はどうなっているのだろうか。

 

「しびれ」と書かれたあたり
 

鍛冶ケ谷カトリック教会。隣には幼稚園がある
 

教会の南側は高校のグラウンドや住宅地だ
 



郷土史家の「しびれ」に対する私見は?



この件に関して、栄地域史研究会の柳下武(やぎした・たけし)さんに質問をしたところ、丁寧に回答してくれた。

「しびれ」の地名の由来に関して伺うと「栄区上郷町にある證菩提寺(しょうぼだいじ)関連の地名で、鎌倉時代の證菩提寺の和尚が持っていた料田(りょうでん:幕府により支給された田)の字名と推定されます。また同地付近にある、旧中野村の大地主であるI家(仮名)の屋号にも残っています」とお話いただいた。

 

證菩提寺(赤線)(Googlemapより)
 

また「『新編相模国風土記稿巻之百村里部 鎌倉郡巻之32』という文献によると、『相模国鎌倉郡鎌倉山内荘本郷のうち、1335(建武2)年3月18日新阿弥陀堂供僧以下料田坪付注文に讃岐僧都行弁分として“田二町 六段志比禮(礼)”』とあり、本郷にあった新阿弥陀堂の供僧(ぐそう:寺院で本尊に奉仕する僧)行弁(ぎょうべん)という僧の料田が当地にあったことが分かります」と答えてくれた。

 

青線で囲まれた部分に「六段志比禮(礼)」と記されている
(『新編相模国風土記稿巻之百村里部 鎌倉郡巻之32』)
 

解説すると、新阿弥陀堂の僧が田を二町(約2万平方メートル)保有していて、その内の六段(約6000平方メートル)が志比禮(しびれ)という土地にあると書かれているようだ。

 

志比禮という地区があったことを示す記述
(『新編相模国風土記稿巻之百村里部 鎌倉郡巻之32』)
 

「また同資料には、『中ノ村 志比禮 上ノ村證菩提寺蔵 建武2年 新阿弥陀堂供僧以下、料田坪付の内六段、志比禮とある是なり』とあります」と答えてくれた。

こちらには、本郷六村(中野村、鍛冶ケ谷村、上野村、公田村、桂村、笠間村)の一つである『中ノ村の小名(小字)に志比禮という地区があったと書かれている。

 

赤く囲まれた地域は現在の中野町。青矢印は投稿にあった「しびれ」
 

前出の「しびれ」と中野町(旧中ノ村)との位置は離れているが、飛び地との関係があるかもしれない。

 

「志(し)びれ」に土地を持つ人たちの名前が書かれているようだ
(『新編相模国風土記稿巻之百村里部 鎌倉郡巻之32』)
 

さらに「私見としては、地名の漢字には、讃岐僧都(そうず=僧侶の位)行弁と関係があると推測します。“志=親切な心 比=比較=並べる 礼=礼拝=敬礼”を表し、地名の漢字は行弁が付けたものと思われます」と答えてくれた。

柳下さんの私見によると「志比礼」は行弁という僧によって名づけられたようだ。
また、證菩提寺には、讃岐僧都行弁の「讃岐」を関連させる四国にまつわる碑がある。

 

證菩提寺内の「四国八十八ヶ所霊場」の碑
 

当院には四国の讃岐地方と関係する僧がいたのかもしれない
 

弘法大師像
 

また栄区の歴史に詳しい、前・光明寺住職の北条祐勝(ほうじょう・ゆうしょう)さんに、しびれの名前について伺うと「志比礼と書き、『しびれ』や『しびれい』と読まれていました。しびれと呼ばれていた場所は奈良時代の班田(はんでん:田を公民に分けあたえる土地制度)のあった場所で、今では公田(くでん)という地名があり、当時の名残があります。地名の由来は分かりませんが、北条泰時の娘、小菅ヶ谷殿(こすがやどの)と関わりがあるのではないでしょうか」とコメントをくれた。