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戦国時代の武将・上杉謙信は横浜出身って本当?

ココがキニナル!

長尾台があの長尾景虎(上杉謙信)にも繋がる長尾家発祥の地って噂があるけど本当?/上杉謙信は横浜市出身って本当?(ホトリコさん、きょろちゃんさん)

はまれぽ調査結果!

上杉謙信自身は横浜出身ではない。しかし氏族の長尾氏は、横浜市栄区長尾台で栄えた一族である

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ライター:三輪 大輔

この洞窟には誰もいない―

鎌倉幕府の御家人・梶原景時(かじわら・かげとき)の言葉を、平家の総大将・大庭景親(おおば・かげちか)は疑った。確かに眼前の洞穴に、源頼朝がいるはずである、と。しかし「私を疑うのか」という梶原景時の凄みに気圧されて、その場を退く。
 


鎌倉幕府を起こした源頼朝の銅像
 

1180(治承4)年、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、現在の湯河原辺りまで、逃げのびた。しかし、総大将・大庭景親をはじめとする追っ手に囲まれ、自死を覚悟する。その窮地を救ったのが、梶原景時であった。

一方、石橋山の戦いには、戦国時代に「軍神」と呼ばれることとなった人物の祖先も参加していた。それこそが長尾定景(ながお・さだかげ)で、長尾景虎(ながお・かげとら)こと上杉謙信の先祖だ。長尾定景は、頼朝方ではなく平家方として参戦し、源頼朝が寵愛していた佐奈田与一(さなだ・よいち)を討ち取っている。

その後、鎌倉幕府を打ち立てて将軍となった源頼朝は、石橋山の戦いで自らの命を助けた梶原景時を重用した。しかし同時に、敵対していた将の多くを助けたそうだ。その中には、長尾定景も含まれる。

もし源頼朝が粛清を行って、長尾定景を殺していれば、上杉謙信も誕生しなかったことだろう。
 


上杉謙信と武田信玄によって四度に渡り繰り広げられた川中島の合戦
 

「越後の虎」と呼ばれた上杉謙信は、どのように誕生したのだろうか。鎌倉を舞台にした長尾氏の活躍を探りながら、上杉謙信の軌跡を追っていく。



上杉謙信のルーツである長尾氏とは?



「大船駅の近くにある長尾台は、長尾家発祥の土地です。その一帯には、かつて長尾氏の屋敷もありました」

そのように語るのは、光明寺の前住職・北條裕勝(ほうじょう・ゆうしょう)さんである。
 


住職のほかに歴史研究の分野で活躍されている北條さん
 

もともと長尾氏は、古くから鎌倉周辺に存在していたという。そのころから、長尾台の辺りに居住し、梶原氏・大庭氏・三浦氏などともに有力な家門として知られており、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)と呼ばれていた。
 


長尾砦の後に建てられた長尾御霊神社
 

長尾砦址の説明を記した栄区役所の看板
 

長尾氏が、歴史の表舞台に現れるのは、石橋山の戦いからである。先述した通り、合戦に参加した長尾定景(ながお・さだかげ)は、源頼朝に敵対し、懐刀(ふところがたな)の佐奈田与一までも仕留める活躍をみせた。しかし長尾定景は、源頼朝によって一命をとりとめる。この頼朝の行動が、後に新たな展開を巻き起こす。

「そのときの頼朝の行いを恩義に感じていたからでしょうか。第3代将軍の源実朝(みなもとの・さねとも)が公暁(くぎょう/2代将軍源頼家の子ども)に暗殺された時、彼を討ち取ったのがほかでもない長尾定景なのです」
 


現在の鶴岡八幡宮
 

源頼朝の恩情に見事応えた長尾定景であるが、その後、長尾氏は衰退へ向かっていく。一族の運命を決定づけたのが、1247(宝治元)年に起きた宝治(ほうじ)合戦である。当時、鎌倉幕府の執権・北条時頼(ほうじょう・ときより)と代々源氏に仕えてきた三浦氏の対立が激化。この戦、長尾定景の子どもである長尾景茂(ながお・かげもち)は、三浦氏の遠戚という関係上、同氏側で参戦した。

しかし、戦は北条側の勝利で終わり、三浦氏はせん滅させられる。長尾景茂も源頼朝を葬った墓がある法華堂で自刃し、長尾氏はほとんど壊滅状態となった。
 


その当時の様子が、北條さんが編集長を務めた『栄の歴史』にも記載してある
 

鎌倉幕府の内乱で滅亡した長尾氏。それでは、同じ長尾の一族である長尾景虎こと上杉謙信は、どのようにして誕生したのだろうか。次のページで、その謎に迫っていきたい。