戦国時代の武将・上杉謙信は横浜出身って本当?
ココがキニナル!
長尾台があの長尾景虎(上杉謙信)にも繋がる長尾家発祥の地って噂があるけど本当?/上杉謙信は横浜市出身って本当?(ホトリコさん、きょろちゃんさん)
はまれぽ調査結果!
上杉謙信自身は横浜出身ではない。しかし氏族の長尾氏は、横浜市栄区長尾台で栄えた一族である
ライター:三輪 大輔
越後の虎・上杉謙信の誕生
時代は、鎌倉時代末期から南北朝時代へ移る。宝治合戦で敗れた長尾氏だが、一族の中に僅かばかりの生き残りがいた。しかし、本領である長尾台を没収されたため、浪人の身である。
長尾景茂の孫である長尾景為(ながお・かげため)も各地を流浪していたという。
現在の長尾台周辺の様子
この時、長尾景為が頼ったのが、上杉家だった。そして、長尾景為の子どもである長尾景忠(ながお・かげただ)のころ、足利尊氏(あしかが・たかうじ)の従兄弟でもある上杉憲顕(うえすぎ・のりあき)の家臣となり越後に入る。
長尾景忠は、上杉憲顕とともに各地を転戦しながら、数々の手柄を上げたという。上杉家での地位を高めた長尾景忠の功績もあり、長尾氏は越後の守護代に任命されると、その役職を代々受け継いでいった。
守護代とは、各国の警備・治安維持に当たった守護の下に置かれた役職である。越後では、上杉家が守護職を務めていた。そのため、守護代になることにより、長尾氏は上杉家とさらに強い関係性を築いていく。
この系譜の先に上杉謙信も誕生するが、その話を進める前に、もう一つ重要なキーワードがある。それが関東管領(かんとうかんれい)だ。
室町時代になっても鎌倉は重要な地域であった
関東管領とは、室町幕府が設けた役職である。室町幕府の誕生とともに歴史の主要な舞台も京都へ移っていった。そこで幕府は、関東地方を将軍の代わりに監督する鎌倉公方(かまくらくぼう)を設置。その補佐役が、関東管領であった。
長尾景忠が仕えた上杉憲顕も、1361(康安元)年に関東管領の役職についている。その後、上杉憲顕の親族などを中心に、関東管領の役職は独占されるようになり、関東で山内上杉氏として栄えていく。
長尾氏が任せられた越後の守護代と上杉家が務めた関東管領が交わった先に、上杉謙信が誕生する。
長尾景虎は1530(享禄3)年、新潟県上越市にあった春日山城で生まれた。
上杉謙信が誕生した、現在の春日山城付近の様子
長尾景虎は、長男ではないので越後の守護代を継ぐ身分ではない。しかし国内では、不安定な情勢を治められない兄・長尾晴景(ながお・はるかげ)に対する不満が高まっていた。そこで、武功を重ねていた長尾景虎が担ぎ上げられ、兄の養子になることで、家督と越後守護代の職を引き継いだ。これにより長尾景虎は、いわば一家の長となる。
一方、関東管領を担っていた上杉家にも問題が起きていた。早世や跡継ぎ問題で、関東管領の職を全うできなくなっていたのだ。そのため、すでに歴史の檜舞台へ躍り出ていた長尾景虎に白羽の矢が立つ。
そして1561(永禄4)年、長尾景虎は、山内上杉家の家督と関東管領の職を引き継いだ。この時、長尾家の長から上杉家の長となり上杉政虎(うえすぎ・まさとら)と改名した。そして上杉政虎は戦国の世で躍進を続け、やがて上杉謙信へとなっていく。
上杉謙信の銅像
上杉謙信は横浜出身ではない。しかし氏族の長尾氏は、横浜市栄区の長尾台で栄えた一族であり、上杉謙信もその血を引いている。現に上杉謙信自身、関東管領の拝賀式では鶴岡八幡宮に来ているし、北条氏と小田原城の戦いなども行った。
現在の横浜市周辺で起きた数々の出来事が、程度の差こそあれ、上杉謙信の運命に影響を与えたといっても過言ではない。歴史の濃淡が少し変わっていれば、横浜から上杉謙信が誕生していたのかもしれないのだから。
取材を終えて
「日本全体にとっては大したことではない。しかし地域社会にとっては、とても重要な歴史の出来事もあるのです」と、取材中に光明寺の前住職・北條さんが言っていた。
歴史の授業では、その時代の表舞台となる地域に、主にスポットライトがあてられる。鎌倉時代なら鎌倉であるし、室町時代なら京都周辺だ。しかし歴史の表舞台が、どこに動こうとも、各地域で新たな歴史は作られている。その地域にとって、大切な歴史が積み重なった結果、生まれたのが上杉謙信なのかもしれない。今回の取材を通して、そのように感じた。
―終わり―
参考文献
『謙信と信玄』吉川弘文館
『山内上杉氏』戎光祥出版
『栄の歴史』横浜市栄区
今宵月男さん
2016年06月28日 02時34分
↓ちゃんと教科書読まないとだめだ。笑
ペテン師さん
2016年06月27日 22時39分
日本の歴史はウソだらけ! ペリーが来る前の歴史なんかは、鎖国してたっ・・・てことになってるし、政権である幕府に都合がいいように物語にされている。 忠臣蔵みたいに・・・ 鎖国してたから海外にバレないのでやりたい放題だっただろう!! 本当に織田信長が本能寺で十文字に切腹して、寺に放火したと思いますか???? 明治・大正・昭和も同じことのくりかえし 本音と建て前の日本民族だから きっと、今の歴史も適当に政権に都合よく語り継がれる それをまとめて、教科書にしているからそれが歴史になる。
信(しん)さん
2016年06月27日 21時26分
>呑屋の狸さんあの銅像は長野県長野市の八幡原史跡公園にあります。いわば川中島合戦激戦の現場だった場所です。長野市でも善光寺に次ぐ観光の名所です。